LL index≫第三章(一気読み) (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9) (10) (11) (12) (13) (14)
移動はゆっくりとしたものだった。もちろん、皇女がすぐにへたり込んでしまうからである。リュークは仕方なく、休み休み歩いた。たかだか一日、それもほんの数時間歩いただけで、サーナの白魚のような小さな足は赤くなり、皮がむけ、しまいにはまめが出来てしまった。皇女を引きずってでも進みたかったが、そうもいかない。彼女を背負って、いくらか歩いてはみたが、そうそう進めるものでもなかった。八歳の少女は、何時間も背負ったまま歩けるほど軽くはない。若い盗賊は足を止めるたびに、肩をすくめた。少女はそれに対し、悪びれた風もない。ただ目を伏せ、すぐに足を押さえては座り込む。そして無表情のまま、黙りこくって目を逸らすのだ。一旦こうなると、リュークがなだめても怒っても、そうそう簡単に歩いてはくれないのだった。
とは言え、彼らは何とか歩き続けた。そしてようやく、小さな町に辿り着く。リュークの予想ではマイオセールを出てから一両日中に着いているはずだったのだが、町の入り口に立った時には既に三日が経過し、なおかつ濃い夕闇があたりを染め始めているといった具合だった。尽きかけていた僅かな食料を思い、リュークはようやく安堵のため息を吐き出した。
ルセールの首都から南東に二十ロッカほど離れたこの町は、ルセールの貴族であるアンワール=サルヴィの城に併設された宿場町である。町には泉が湧いているから、水にはそれなりに恵まれていると言えるだろう。アンワールはここで自領地を治めながら、街道筋の治安維持に努めているわけである。とはいえ、最近のアンワールの仕事は関税搾取が主になりつつある、というのがもっぱらの噂であった。
王都から南東に馬で一ヶ月ほどいくと、港町コーウェンがある。ここはミクリナ島からの産物が一番初めに着く港で、絹交易の恩恵を十分に受けていた。絹織物を始めとした様々な商品がコーウェンから大陸各地へ送られる。大きな道筋は二つ、山脈へ向かう道と王都へ向かう道だ。コーウェンと王都を繋ぐ街道は、ルセールにとって非常に重要な、物資流通のための道なのだった。街道筋にはいくつかの城があり、小領主たちが治安を維持している。追いはぎや野盗などとは滅多に遭遇する事のない、安全な街道なのである。リュークがこの町を、この街道を選んだのは、そういった理由からだった。
「おい、頼むぜ? 俺が帰ってきた時、この子が今とちょっとでも様子が違ってたら……」
「やだわ、リュークったら。あたしがリュークの言いつけ守らなかった事ないじゃない。ね? そうでしょ?」
「あぁ分かってるって。念を押しただけさ」
「でもリューク、どのくらいで戻ってくるのさ? こんな小さな子、娼家にそう何日もおいてやれないわよ」
「それも分かってるよ。一仕事してくるだけだ」
「そう、それならいいわ。その代わり、帰ってきたらあたしと遊んでね」
「俺はお前に会いに来たんだよ。この子は口実さ」
リュークの前にいるのは、首や手足を大小様々の宝石で飾りつけた、ジェラシュの女だった。ゆったりとした服を身に着け、革製の帯をきつく巻いているので、細い腰がより際立っている。肩から背中へ流れ落ちるような黒髪は艶々と美しく、浅黒い肌には香油が塗られていた。そこらには柔らかな敷物が敷き詰めてあり、壁には透けるような布が幾重にも垂れ下がっている。サーナは香炉から立ち上る煙と、きつい脂粉(しふん)の香りに顔をしかめていた。
大きな町の歓楽街や、この町のように旅人が行きかう宿場町には娼家が多い。一般家庭では滅多に見ることが出来ない風呂に入れるのが特徴で、ひいては大衆的な娯楽場ということでもある。多くの奴隷が召し抱えられていて、客の食事の相手をしたり、様々な世話をしたりする。更に上級の女奴隷もいて、多いところでは十数人以上が寝泊りしている。彼女らは奴隷ではあったが、「ラハブ(遊女)」と呼ばれた。その扱われ方は非常に丁重で、個室を与えられ、気に入った客を部屋へ呼ぶ事も出来る。客がいくら誘っても、気に入らなければ首を振ればいい。ここでは、男の客よりラハブの方が優位なのだった。今リュークがいるのは、そういった個室の一つである。
「ふふふ、嬉しい。リュークは滅多に来てくれないから」
「俺も忙しくてな」
「そんなこと言って、本当は……」
リュークは、女に最後まで言わせはしなかった。しなだれかかる女の腰に手を回し、逆の手をあごにかける。しかしそこでサーナの事を思い出したようだ。慌てて立ち上がると、額に落ちた長い前髪を右手で軽くかきあげた。
「じゃ、頼んだぜ。ギルドにも顔を出さなきゃなんないしな」
「商人ギルドに何の用があるっていうの?」
「馬鹿だな、表のギルドじゃないさ。商人には商人の、盗賊には盗賊のギルドがあるんだよ」
そう言って笑うと、リュークは部屋の扉を後ろ手に閉めた。後に残されて不安げなサーナは、ラハブと視線を合わせぬようにして膝を抱える。部屋の隅で小さくなっている少女を眺めやったラハブは、面倒そうな顔でため息をついた。
狭い横道から広々とした大通りに出て、人通りの合間を抜けていく。夕暮れ時の町には、いつもと同じようにむっとするような熱気が満ちていた。収穫季である今は、この鬱陶しい湿気さえなければ非常にいい季節といえるだろう。北のような豊かな四季はないが、ルセールの収穫季は乾季に比べてずっと過ごしやすい。
――一年中収穫季だったら……なんてな。
晴れ渡る空を見上げて、リュークは一人くすくすと笑った。ほんの数日前に起こった忌まわしい事件も、彼の中では既に過去の事として片付けられているのだろうか。時折歌を口ずさんだりもするほど、機嫌が良さそうである。非現実的な存在も、マイオセールの悲劇も、皇女のことも、姿を消した友人のことも、リュークはその全てを忘れたかのようだ。鼻歌交じりでとある路地に入り込む。この路地を知っている者は、余程火急の用事でもない限りここを通らない。危なくて近寄れやしないからだ。
路地の半ば程にある建物の入り口近くには、物騒な短剣を弄んでいる男が立っていた。二本の短剣を投げ上げては持ち替え、時折服で磨いたりするところは、いかにも扱いに慣れているごろつきといった風体だ。その眼光の鋭さは、男が只者ではない事を予感させた。しかしリュークは躊躇いもなく近づいていく。男はリュークに気がつき、短剣を利き手に持って身構えた。が、次の瞬間その相好が崩れる。
「なぁんだ、リュークの兄貴じゃないっすかぁ。珍しいですねぇ」
「ようイヴン。ギルド長はいるかい?」
「ゼルアルの親父だったら、今は忙しくてギルドなんかでゆっくりしてる暇はないっすね」
「どういうこった」
「ワリードさんが来てますから、詳しくは下で……」
扉を開けると、すぐに階段がある。地下へと続く薄暗い階段を降りると、ごく狭い通路で男が椅子に座っていた。壁ぎわに置いた椅子に腰かけ、壁に上げた足が通り道を遮断している。体つきはがっしりしていて、むき出しの腕もリュークの倍は太そうだ。波打つ硬そうな黒い髪の下から、やはり黒い目がぎろりと見上げる。
「……何か用かい」
「ああ、ワリードに話があるんだ」
「俺はあんたが誰か知らねぇし、通していいって話も聞いちゃいない」
「そりゃ困ったね」
リュークは口を歪めて笑い、前髪をかきあげた。それからおもむろに大声を張り上げる。
「ワリード! リュークさまのお出ましだぜ!」
「てめぇ……」
のっそりと立ち上がった男はリュークより頭一つ以上大きく、低い天井に頭がつきそうな程だった。しかしリュークはお構いなしだ。男の両腕がリュークを捕まえようとしたが、それを軽くかわして再び大声を張り上げる。通路の向こうに並んでいる木の扉がいくつか開き、興味あり気な顔がのぞいた。扉が開くと、騒々しいざわめきが通路に流れ出す。多くの部屋ではごろつきどもが呑んだくれているようだ。通路の一番奥、突き当たりの扉が開き、猫背の男が姿を現した。大きな帽子がその頭に乗っている。男は見張りの男のところまでやってくると、その肩に優しく手をかけた。
「こいつはいいのさ。一匹狼だとかきどっちゃいるが、ゼルアルの古い知り合いでな」
「ワリード、きどってるって何だよ」
「よおリューク、久々だな。ご機嫌かい?」
ワリードと呼ばれた男は、のんびりとした口調でリュークに笑いかけた。眠たげな目はどこに焦点があるのかいまいち定かではない。火傷の跡も生々しい右手で、見張りに座るよう指示する。男は不服そうな顔をしながらも、再び椅子に腰掛け、向かいの壁に足を上げた。
「どうかな。こっちこそ、最近はどうなんだい? アンワールの旦那は相変わらず?」
リュークがにやりと笑って見上げると、ワリードはそれに応えてゆっくりと頷いた。
「ああ、ご領主様は相も変わらず抜け荷さばきにご執心だよ。ちょっと前にマイオセールから早駆けが来た時も、兵を集めることすらしやがらねぇ。そうそう、なんでもマイオセールに正体不明の化け物が現れたらしいぜ」
「知ってるよ。たかだか三日前に死にそうな目に遭ったばかりでさ、おかげで今も面倒な事に巻き込まれてるんだ」
「一匹狼って奴は、やっぱり色々と大変そうだな。で、今日は何の用だったんだ? ギルド嫌いのお前が来るなんて珍しいじゃないか」
「まあな、用でもなきゃこんな女っけのないとこにゃ来ねぇよ。実は売りさばいて欲しい品があってさ、ゼルアルに頼もうと思って来たんだけど……あの親父、忙しいんだって?」
「ゼルアルはここんとこ寝る暇もねぇくらいだよ。王都がやばくなっちまったんで荷物がたまってな、それの処理が大変なんだよ」
「組織って奴は、やっぱり色々と大変そうだな」
ワリードの仕草を真似、言葉をおうむ返しにしてリュークは笑った。ワリードは肩をすくめて苦笑するばかりだ。
「さてどうする? ギルド長はいないし……品物、俺が預かろうか?」
「ゼルアルが落ち着いた頃、また来るさ」
リュークはにこやかに笑うとワリードに背を向けて階段を上がっていく。ワリードはそれを笑顔で見送っていたが、リュークの姿が消え、扉の閉まる音が聞こえると、階段を睨みつけて呟いた。
「ちっ、あの野郎……」
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