LL index≫第五章(一気読み) (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9) (10) (11) (12) (13)
あたりは、しんと静まり返っている。エイルは自分がいつ目を覚ましたのか分からなかったが、気分よくまどろんでいた。窓の外の音に耳を済ませたが、雑踏や人声は聞こえない。
――もう日は暮れたのか? 随分と寝たんだな。しかし、そろそろ……。
朝食をろくに食べなかったせいで、エイルは空腹を覚えていた。しかしここで双子を起こすわけにはいくまい。腹が減ったなどと言おうものなら、クレオが勝ち誇った顔で言うに違いない。「それ見たことか、だから食事をしろと言ったのに、これだからエイルは……」と。そんなことは我慢ならない、とエイルは思った。布団を思い切り引き上げ、腹が鳴らないよう祈る。三人が眠りについた時刻からもう随分と時間が経っているのだ、遅かれ早かれ二人も目を覚まし、食事をしようと言うだろう。そうしたらこの宿ではなく、別のところで食事をしろと言えばいい。
――それにしても……この先どうなるのだろうか。
静かな部屋で布団にくるまりながら、エイルは天井を見上げた。自室で寝ていた時に見えた景色を思い出すと、何だかもう遠い過去のような気がする。柔らかな鳥の羽毛をいっぱいに詰めて、絹でくるんだ軽く柔らかい布団。三つ並べてある、頭を置くと埋もれてしまうような絹の枕。見上げれば薄いヴェールを垂れ下げた天蓋の素晴らしい模様が目に入る、自室の大きな寝台。今は固い木の台に薄い布団だ。枕はないので上着を丸めて頭を乗せている。エイルはその落差に思わずため息をついた。城での暮らしはもはや夢の中の出来事だったかのように思える。
――あれから半年以上か。コーウェンとやらいう町まであとどのくらいかかるか知れないが、きっとまだ遠いのだろうなあ。
クリフのおかげで命拾いをしたとはいえ、あんな恐ろしい目に遭うのは二度とごめんだ、とエイルは思った。城にいた時は命の危険など、それについて考えたことすらなかったというのに、一体これはどういうことだろう。何がどうしてこんなことになってしまったのだろうか。
――そうか……コジュマールだ。
コジュマールはレノア国第十三代の王、つまりエイルの父親の弟である。レノア王エイクスは長男であり、弟と妹が三人ずついる。コジュマールは、下から二人目の弟であった。それがある日、唐突に反乱を起こし、圧倒的な軍事力をもって城へ攻め入った。そしてエイクス、その妻にしてエイルの母親であるマードリッド、エイルの異母兄弟であるシエルまでを葬り去ったと、そう、シキは言った。エイルにとって、シキが言うことは自分の目で見た事実と同じか、それ以上の重みを持っている。エイルには、もう二度と両親や兄に会えないという事実を、受け入れる以外に手段がなかった。容易(たやす)く納得出来たわけではない。ただ突然変わった環境への対応に迫られていたので、悩む暇もなかったのである。実際、こうして色々な事を思い起こすのは、久しぶりだった。
――ジルクは今頃どうしているだろうか。
あれから三百年余が経っているとは、エイルはいまだに信じがたかった。三百年前と今の世界は色々な部分で違っているのだろうが、レノア城から出たこともないような王子にとっては、それが分からなかった。現在と過去の差を感じるより前に、貴族と庶民の生活の差を感じ、驚愕していたのである。このまま何とか順調に南へ旅し、コーウェン近郊で大魔術師を見つけることが出来、過去の世界に帰ることが出来たとして。あの時のレノアに帰れたとして、そこに何が待っているかといえば、死体の山と、崩れた城と、勝ち誇るかつての王弟コジュマールの軍なのではないだろうか。もしそうならば、シキとエイルに何が出来るだろうか。ほんの一瞬、いっそこのままこの世界で暮らしたい、という考えがよぎる。しかしエイルはその考えをすぐに打ち消した。
――やはり私が住む世界はここではない。レノアが反逆者に乗っ取られているならば、なんとしてでも正統な王位を取り戻す。それが王家に生まれた私の宿命だ。コジュマール叔父、いや反逆者コジュマール、王位はあなたのものではない。父王陛下の、そうでなければシエル兄殿下の、……もしそうでなければ私のものだ。
エイルは両手の指を合わせて握りしめた。どうすればいいかは分からない。自分は今、何も持っていない。しかし彼は確かに「王の息子」だった。エイルは唇を固く噛み締め、なんとしても過去のレノアへ帰ることを、そしてレノア国に正統な王位を取り戻すことを胸に誓ったのである。
しかしどれだけ高潔な誓いとて、空腹には勝てなかった。エイルは思わず握り締めていた両手を自分の腹に当てる。ぐっと押さえたが、腹はあえなく切ない音を立てた。
――あれからかなり時間が過ぎたと思うが……クリフたちはまだ起きないのか。
恐らく、もう真夜中といっていい時刻だろう。時を告げる鐘の音も、日の入りを告げたのを最後に、もう随分鳴っていないようだ。次に鳴るのは日の出の時刻だが、それはまだ先だろう。エイルはため息をついた。
ふと、何かが軋(きし)む音がした。古い木造の宿は、家鳴りすることがある。時折、建物のどこかが、軋むような音を立てるのだ。しかし天井を睨みつけて空腹に耐えているエイルの耳に届いたその音は、家鳴りとはまた違う音だった。確かに木がしなって鳴る音ではあったが、それはゆっくりながら規則的で、しかも徐々に近づいてきている。
――誰かが廊下を歩いている……?
エイルは思い、不安に駆られた。こんな時刻に誰が宿の廊下を歩くというのだろうか。自分たちはさておき、デュレーの町に限って、夜間に到着する客などいるはずもない。
――まさか、盗賊か。
宿の客を狙う賊はどの街にもいる。大抵はちんけなこそどろで、寝ている客の荷物をこっそりと漁って金や武具などを盗んでいく奴らである。だが中には極悪非道な強盗もいる。客が起きて騒ぐ前に殺してしまえ、というような物騒な盗賊も、稀ではあるが確かにいるのだった。そういった盗賊に出会う可能性は非常に少ない。とてつもなく運が悪いといえるだろう。エイルは、だからまさかそんなことはあるまい、と思った。がしかし、恐怖を拭い去ることはできない。足音は止まることなく、確実にこの部屋へと近づいている。
もし起きているのがシキであれば、剣を手繰(たぐ)り寄せ、息を殺して待つだろう。クリフやクレオだったらどうするだろうか。今、自分がすべき事はなんだろうか。エイルは必死で考えた。もちろん、足音の主がこの部屋を目標にしているとは限らない。しかし、もしそうだったら?
エイルは素早く、しかしなるべく音を立てないように寝台から降りると、クリフに走り寄った。シキは怪我をしているし、今一番頼りになるのはクリフだ、という判断である。とにかく、自分一人でいたくはなかった。しかしいくら揺すってもクリフは安らかな寝息を立てているばかり。耳元に口を寄せ、小声で呼んでみたが反応がない。足音はどんどん近づいてくる。エイルはそこを離れクレオの寝台に近づいたが、結果は同じだった。緊張が高まり、エイルは唾を飲み込む。その時、足音が止まった。恐らくは、エイルたちの部屋の前で。
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