その泉は何も語らず、何も映さず。
銀色の月の光の下。その身体いっぱいに、綺麗な透明の液体を湛えて。静かに。ただ、静かに。眠りつづけていた。
悠久の時は流れゆき、時の神サキュレイアが持つ砂時計の砂は永遠に落ちつづけていく。泉のそばを、数え切れないほどの物語たちが通りすぎていった。救国の英雄の物話、名もない旅人の物話。流浪する吟遊詩人の物話、美しい女性の恋の物語、報われない兄弟が堕落した物話……。それはそれは多くの物語が、泉の横をすりぬけていったものだ。そして今また、小さな物語の幕が、静かに、上がり始めている。
木々たちがその枝を激しく振り、ざわめいている。人気もない黒き森の奥深く。今日も「彼ら」が目を覚ます。小さな笑い声がさざめきのように木の葉をゆらし、それはいつか風となって木々を揺らしていく。もし誰かがここにいて、何かの気配を感じたとしても、その目には何も映らないだろう。ただ、闇の奥深く、人の声とも風の音ともつかぬ音が響いているのがわかるだけだ。けれど……目を凝らしてよく見ればすぐに分かる。木の枝で、足元で、小さな異形の者たちが笑い、駆けぬけていく。光る昆虫かと思えば、羽根を振るわせて歌う妖精もいる。自然界の精霊とは違う、異形の者が巣食う森。
夜が来ると、彼らは活発に動き出す。昼間だと、ごく稀に紛れ込む旅人に出会ってしまう事もある。だが夜ならば。こんな深く暗い森に足を踏み入れる者はいない。夜、彼らは我が森を自由自在に飛び回る。
「やあ! ジャックス、今日は遅いね」
「よーう、トメロじゃねえか、元気かよ」
「ハイ、ジューキー!」
「おはようレイラ」
「あっらリーガル、もう夜よ、今日は何の日か知ってるの?」
「ねえねえローレル見なかった、どこいっちゃったのかな」
「知らねーなあ」
「あ、見て」
「もう、月が昇ってる……」
「あぁ……メルィーズが」
誰からともなく空を見上げる。ついさっきまでは西の空が真っ赤に燃えているようだったのに、今はもうずいぶんと暗くなっている。東方の空から続く、美しい諧調。群青色に染まる空は、刻一刻とその色を変え、深い闇の色に染まっていく。今日の月はまったく欠けていない。完璧な満月だ。でも、この森にいる限りその真円を見る事は出来なかった。メルィーズは、どんなに眩い光を投げかけたとしても、その姿全部を見せてはくれない。切なげに空を見上げる彼らの頭上には、木の枝々。月は、その枝でひびが入ったようにしか見えないのだ。闇が覆いかぶさって来るような気さえする。
「ああ、やっぱり、見えないわね」
「ぼく、完璧なメルィーズなんて見たことないよ」
「ここにいる限り、俺たちにゃ見られねーのさ」
「ちぇ、ずるいや! ぼく、悪い事してないのにな……」
「そうね……私たちは、ね……」
これは彼らへの戒め。ずっと、ずっと昔に彼らの祖先が魔物の封印を解いてしまったから。
真実かどうかすら、もうわからない。しかし、伝承は語る。
封印を解かれた魔物は人間を襲いつづけ、多くの命が失われた。魔物を恐れた人々は、彼らの祖先を生贄にして秘術を執り行った。彼らは姿を変えられ、森の奥深くに封じ込められる。魔物が蘇らぬよう建てられた石碑を守るのが彼らの運命。彼らは森から出る事はできない。これまでも、これからも、ずっと。
「いつか、まあるいお月様が見られる?」
「そうね、いつか、見られるといいね……」
「いつか来るさ、そういう日が!」
「そうよ、踊ってればすぐよ」
「歌って、踊ってればね♪」
「♪♪♪♪♪」
「楽しまなくちゃな、夜はこれからだもの」
「よし、じゃあ広場に集合だ、満月に乾杯しようぜ!」
彼らはその日を待ちつづける。例え、来ないと分かっていても……。
その泉は何も語らず、何も映さず。ただ、銀色の月だけを見つめていた。水面は音もたてずにひっそりとしている。そうして泉は、また眠りにつく。ただ、静かに。そして、この物語の幕も静かに下りていく――。
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