星の乙女

その大きな広場はほぼ完全な円形で、十二本の太い柱が周りを囲んでいた。神話に語り継がれる多くの神々の内、主な十二神をかたどった柱である。柱はあるが、天井はない。人々は中央にある祭壇から太陽神ハーディスに祈りを捧げるのであって、天井は必要ないからである。むしろ、邪魔なものだった。

祈りの場、かつ人々が集う広場の周りには、回廊状に煉瓦が敷かれていた。その道に面して、いくつかの建物が並んでいる。

神学校と呼ばれる建物では子供たちが基本的な勉強をしたり、神官になりたい若者が学んだりする。診療所はお世辞にも充実していると言えないが、応急手当てくらいなら受けられる。また福祉の館では貧者のため、無料で食料や毛布が配られていた。

この広場とそれらに付随する建物群を、人々は神殿と呼んでいた。

ハーディスの陽射しが降り注ぎ、広場に生えた大木の木の葉が柔らかな木陰を作る。神学校で学ぶ若者たちはその木の下で本を読み、町に住む老人たちは広場の長椅子に腰掛けて日向ぼっこをし、大きな祭壇に向かう階段では子供たちがはしゃいでいる。神殿の広場では日常と言える風景だった。

夢中になって遊んでいた子供たちがふいにその動きを止め、建物群の一つを指差す。東の方角にある、立派な作りの建物。その扉が開いて、一人の少女が姿を現したところだった。

「ルゥ姉さま!」

「姉さまだ!」

子供たちは次々と少女に気づき、笑顔を見せた。大きく手を振る子もいる。

少女は、その顔にまだ幼さを残していた。十八という年齢にしてはあどけない笑顔。丁寧に梳かれた亜麻色の髪が、ゆったりとした白い麻の服が、春先の風に揺れる。

彼女が近づいていくと、子供たちはみな集まってきた。どの子も目をきらきらと輝かせている。一人の、まだ幼い少女がおずおずと口を開いた。

「姉さま、今日は元気なの? 具合はいいの?」

その子が差し伸べた手を取り、ルゥは芝生の上に座った。子供たちはその周りに集まり、彼女の顔をしげしげと見つめる。

「大丈夫、元気よ。みんなに会いたくて、出て来たの」

そう言う彼女の顔色は青白く、健康そうには見えなかった。が、ルゥは目に慈愛の色を浮かべ、優しくうなずいて見せた。

「あんまり長くはいられないけど……お話をしましょうか」

その言葉を聞くと、子供たちはぱっと顔を輝かせる。

「お話してくれるの?」

「ええ、いいわよ。神様のお話ね?」

「うん!」

「誰の話にしましょうか」

「うーん、と、んー……」

子供たちは首を捻ったり、腕組みをしたりして考え、ついにその内の一人が南側の柱を指差して答えた。

「姉さま、あの柱に彫ってあるのは、誰だっけ?」

「あれは、マオラね。お空の神様よ」

「マオラのお話をして!」

「そうだそうだ、マオラがいいよ!」

子供たちが口々にそう言うので、じゃあ、と彼女は話し始めた。

「マオラはお空の神様です。大地の神ルドの奥さんで、太陽神ハーディスと雨の神レーヴェのお母さんでもあります。彼女はいつでもみんなを包んでくれています。ほら、見上げてごらんなさい」

晴れた空を指差すと、皆がそれにつられて空を見上げる。青く澄み渡った空には雲が薄く重なっており、ゆったりと風に吹かれているようだった。

「天気の悪い時も、いい時も、マオラはあの空にいるの。あの空全体がマオラよ。例えば……ねえレスカ、あなたは明日、晴れて欲しいと思うかしら?」

最初にルゥを気遣った少女が、しばらく考えてから、大きくうなずいた。

「明日はジュリと遊びに行くの。だから、晴れて欲しいな」

「そういう時は、マオラに祈るといいわ。彼女は雨の神レーヴェも大好きだけれど、太陽神ハーディスが大好きなのよ。きっと、ハーディスに明日も頑張ってって言ってくれるわ」

「うん!」

「さて。昔、一人の旅人がいました。彼は各地を回って冒険をしていました。ある時、大きな山に登ろうとして……。ね、みんなはバラミアという山を知ってる?」

それぞれに顔を見合わせ、知らない、と首を横に振った。

「聖なる山よ。人が立ち入ってはいけないと言われているの。でもその旅人は、登ってみたいと思っていたのね。誰も行った事がないところへ行くのが、彼の夢だったのよ。そこである日、色々な準備をして、バラミア山へ向かいました。ふもとに着くと、宿で一泊しました。そして翌朝、宿のおじさんに止められたのも聞かず、山に登ろうとしました。ところが、突然雨が降り出したのです。レーヴェとマオラに文句を言って、その日はもう一泊宿に泊まることにしました……」

子供たちは真面目な顔をしてルゥの話を聞いている。

「……翌日は晴れていましたが、山に登ろうとすると、今度は稲妻が見えて……。じゃあ夜になっても行く、と言ったら、夜には霧がかかって何にも見えなくなってしまったのです。こうして、旅人は何日も足止めされてしまいました。そしてついに彼はバラミアに登るのを諦めたのです」

「マオラが邪魔してたの?」

「そうかも知れないわね。バラミアは聖なる山だし、登るのはとても危険だもの。危ないからやめておいた方がいいって、忠告してくれたのかもね。娘のレーヴェは泣き虫で、いつも泣いているけれど……それはハーディスの方がお外に出る回数が多いからで、ハーディスも悪いとは思っているのだけど、みんなが晴れを願う事が多いから、ついついそうなってしまうのね。だからレーヴェはお外に出る時も、いつも泣いているの」

「だから雨が降るんだよね」

「そう。でもマオラは優しいお母さんだから、レーヴェがおうちに帰らなくちゃいけない時は必ずご褒美をあげるのよ。なんだか分かる?」

「分かった、虹だ!」

一人の男の子が自慢げに叫ぶ。ルゥは優しい眼差しを向け、うなずいた。

「そう。雨の後には必ず虹が出るわね。あれはマオラからレーヴェへの贈り物なのよ」

話を終え、ルゥは大きな息を一つついた。子供たちは思う。マオラが優しいと言うけれど、きっと姉さまの方が優しい、と。

祭壇を指し示し、ルゥは子供たちに言った。

「さ、マオラに祈りを捧げていらっしゃい。今日もありがとうってね」

「はーい!」

彼らが駆け出すと、ルゥは足を押さえて立ち上がった。力が入らないのか、どこかゆっくりとした動作である。

手で日影を作り、空を見上げる。一ヶ月に幾日かしか見られない空。マオラは今日も優しく微笑んでいるのだろうか。ルゥは一歩ずつ踏みしめるようにして歩き、屋敷へと戻っていった。

帰宅したルゥに、母は良い顔をしなかった。

「ルゥ、外へ出るのもいい加減にしなさい」

「ただいまくらい言わせて」

「まぁ。いつからそんな口のきき方をするようになったの?」

「……ごめんなさい」

「ねぇルゥ、私はあなたを気遣っているの」

「大丈夫よ。ちょっと子供たちとしゃべってきただけだから」

「それを悪いとは言わないけど……あの子たちは福祉の館へ来ているのでしょ? 家もない孤児たちよ。あまり衛生的とは言えないわ」

「母さま、そういうことを言わないで」

「あなたの体を心配しているんじゃないの」

「……」

ルゥは疲れた様子で椅子に腰掛けた。

「ルゥ、何が気に食わないって言うの?」

「別に、嫌なわけじゃないわ。ただ、私もみんなと同じように太陽の元で、ハーディスの光を浴びて暮らしたいの」

「気持ちは分かるけど、あなたには無理よ。足が弱いのは生まれつきなんだし……」

「練習すればもっと歩けるようになるわ」

「ルゥ。あなたにはそれより大切な訓練があるって、分かっているでしょう? あなたは司祭なのよ。それも、非常に高い素質を持っている。私があなたくらいの年齢の頃は、それほどの能力はなかったわ。あなたはこの界隈で最年少の資格保持者でしょ」

「だからって……」

「司祭になりたくてもなれない人が、数多くいるのよ。ルゥ、あなたには多くの人を救う力があるわ」

「分かっています」

「町のためにも、いいえ、この国の人すべてのために、あなたは司祭の能力を磨くべきなのよ」

「……」

「さあ、準備は出来ているわ。終わったら食事にしましょうね」

「はい、母さま」

ルゥは深い息を吐き出した。母に従い、燭台の並ぶ机につく。そして二人は、限られた者しか行うことの出来ないという「予見」の儀式を始めた。

ルゥが森の泉へ行くことになったのは、いくつかの偶然が重なってのことだった。

生まれつき足の弱い彼女が――町からそう離れていないとはいえ――森まで出かけることなど、本来ならばありえない事である。その発端は、町の木こりギルドからの要請だった。

木を切るときに一番嫌なのは、グーラという虫に見つかる事だ。グーラは切り株や切り倒した木の内側の汁を吸う。木を切っているところをグーラに見つかると、あっという間にグーラが大群で押し寄せ、切った木は使い物にならなくなるし、木を切る作業などは一切出来なくなる。それどころか、刺されると毒素で腫れ上がったり、下手をすると失明したりするのだ。この近隣の森にはグーラが多い。グーラが出るかどうかが、木こりたちにとっては重要な問題であった。もちろん、木こりギルドは入念に調べているが、残念ながら確実に分かる手段はなかった。ギルドは今回初めて、司祭にグーラの出現があるかどうかを見てもらいに来たのである。

ルゥの母親は、当初自分で占ってみた。だが自然界のことであるせいか、街中ではなかなか占えないようだった。色々なことを試したが、どうも上手くいかない。森の泉で占うしかなさそうだ。だが、自分が行く暇はなかった。ギルドから急かされ、最終的に彼女はしぶしぶながらルゥの外出を許す羽目になったのである。今まで、決して叶わぬ夢だった町からの脱出。ルゥは緩む顔を引き締め、逸(はや)る気持ちを抑えて、母親に告げた。

「では、行って参ります」

「本当に……気をつけてね。ああ私が一緒に行ければいいのだけど」

「トーシェさんのおうちで、別のお仕事があるのでしょ? 仕方ないわ。私一人では心配かもしれないけれど、大丈夫よ。危険などありはしないわ」

「くれぐれも、かごから落ちないように気をつけてね」

「はい、お母様」

いつもにもまして殊勝な態度を見せ、ルゥは用意されたかごに乗った。非常に良く訓練された二頭の馬が、その間に吊るされたかごを挟むようにして立っている。ルゥが乗るとかごは揺れたが、きちんと座るべきところに納まると、意外と居心地が良いことが分かった。森の泉での予見を依頼した木こりは、くしゃくしゃになった帽子を握り、ルゥの母親に頭を下げた。

「娘さんを遠くまでお連れして申し訳ない。でも、どうしてもあそこじゃなきゃなんねぇんだろ」

「ええ……木と水のある、清められた場所と占いに出ていました。この家や他の場所でも試したのだけど、駄目だったのです。仕方なく森の泉を選んだけれど、まさかこの子が一人で行くことになるなんて……」

「はぁ」

「明日も明後日も私は用があるし、その後なら一緒に行くことも出来るのだけど、もうずいぶんと待たせているから仕方がないですね」

「……すんません」

母親の大きなため息に、木こりは思わず謝った。これ以上つらつらと文句を言われては敵わないと思ったのか、そそくさと馬の頭の方に回り、手綱を取る。

「そんじゃ、夕方までには帰りますんで」

「どうか気をつけて。娘をお願いします」

黙って頭を下げると、木こりは二頭の馬を器用に操って歩き始めた。通りへ出て、町の外へと向かう。かごは規則正しく揺れ、ルゥは少し眠気を感じた。だが、町の外の景色に胸を高鳴らせていたので、実際に眠れはしなかった。木こりは何もしゃべらず、ゆっくりと慎重に馬を歩かせている。母に相当きつく言われているのだろう、とルゥは苦笑した。

木こりと二頭の馬、そしてかごに揺られたルゥは、何度か休憩を挟みながら、午前中いっぱいかけて森への道を辿っていった。だんだんと家がまばらになり、最後の家を過ぎると景色は急に広がる。なだらかな丘が続き、あちらこちらに森が見えた。ルゥの住んでいるリブケスタは周りより少し高い丘の上にあったので、かなり遠いところまで見渡すことが出来た。左右は馬に遮られて見えないので、ルゥは少し乗り出すようにして前方をずっと眺めていた。

――すごいわ……世界は本当に広いのね。

予見をすると、色んな景色を見る。行ったことのない場所を、彼女は何度も見てきた。だが、町以外の景色を実際にその瞳に写して見たのは、これが初めてだった。頭上に広がる広大な空と、眼前に広がる広大な土地。豊かなレノアの丘陵地帯は、世間知らずの少女に大きな衝撃を与えていた。

少し細い脇道に入ると、下が土になった。今までは煉瓦だったので馬のひづめが硬い音を立てていたが、柔らかな土を踏む音に変わる。乗り心地の良さが少し増した。冷たい空気が湿気を帯びている。森の木々が吐き出す空気が清浄なものに感じられた。

――母さまが言っていた『清められた場所』っていうのは、こういうことだったのね。確かに、森は町より清浄な空気に満ちている……。

ルゥの頭上には大きな木々の枝がかかり、その隙間にハーディスのかけらが散りばめられている。木漏れ日は地面にもこぼれ落ち、あたりは光と影の入り混じったまだら模様でいっぱいだ。ルゥは、浮き浮きとした気持ちが胸にこみ上げるのを止めることができなかった。木こりが、小さく鼻歌を歌っている。ルゥはふと心に浮かんだ疑問を口に出した。

「いつも、この森で仕事をしているの?」

「ああ」

短く端的な返答に、ルゥは思わず次の言葉に詰まる。そんな気配を感じたのか、木こりの青年はルゥを振り返った。

「ええと……ここだけじゃないが、ここにも来る」

あまり口達者ではないこの青年を、ルゥは今朝、初めて見た。迎えに来たと言ったその顔がどんなだったか、実はあまり覚えていない。ごく普通の青年だと思った。無口なのは生来のものだろうか。馬を引いて歩いていく後姿を見ながら、ルゥは考え続けた。青年は背が高く、太ってはいない。肩幅などを見ると、恐らくがっしりとした体つきなのだろうと思えた。父親を幼い頃に失ったルゥにとっては、どのくらいの体型が「普通」なのかは良く分からなかったが、それでも、この青年は立派な体格だという気がした。

泉のある広場に着くと、青年は馬を静かに止め、かごからルゥが下りるのを手伝った。ずっと同じ姿勢でいたので、下りるときは少しよろけたが、青年がしっかり支えてくれていたので、怖いことはなかった。

「どうするんだ?」

ルゥが泉に手を浸して楽しんでいると、青年がぶっきらぼうに尋ねた。

――そうだ、予見しに来たんだった。

やるべきことを思い出し、初めて来た場所で浮かれていた自分を少し恥ずかしく思う。

「ごめんなさい」

――でも……こんな綺麗なところ、初めてなんだもの。少しくらい遊んでもいいじゃない。

透明な泉の底から水が湧き出ているのを横目に見ながら、ルゥは予見の準備を始めた。青年には少し休んでいてもらうように、それからしばらくの間声をかけないでいてくれるように頼む。

ルゥという少女が予見を始めたようなので、青年は黙って馬に水を飲ませ、自分も喉を潤した。少女は布を敷き、その上に座って目をつぶっている。しばらく見ていたが、微動だにしない。時折、眉間にしわを寄せているくらいだ。

――あんなんで、本当に色々見えるんだろうか。

青年は怪しんでいた。未来が見えるなどと言われても、到底、信じられることではない。何の根拠もないし、理論も分からなかった。少なくとも、あまり教養の高くない、この木こりにとっては。

だが、ルゥが優れた司祭であることは町の人々の認めるところだった。

親戚に司祭が多いのも、やはり能力の高さの由縁なのだろう。彼女の「予見」はごくごく幼い頃から、予知夢を見る形で始まった。不定期だったそれが意志の力で見られるようになり、何と、わずか十歳にして彼女は司祭の資格を取ったのだ。ただ、そこに彼女の意思があったかどうかは定かではない。

――あの家にこもりっきりで、毎日予見の修行に明け暮れて……。まだ若い娘なのにな。

木こりの青年は、ルゥを哀れに思って見つめた。綺麗に手入れされた亜麻色の髪。色素の薄い瞳は、今は閉じられていて見えない。小さな唇。細いあご。折れてしまいそうな白い首。華奢な肩……。青年はそこで目をそらした。これ以上見ていてはいけないという気がしたのだ。わざとらしく両腕を上に伸ばし、固まった体をほぐす振りをし……そしてもう一度少女を見た。別に、誰が見ているというわけでもなく、そして当人も目をつぶっているのだから、真っ直ぐ見ればいいものを、何故か青年は横目でしか見られなかった。……別段変わったところのない、ごく普通の、町の娘が着るような服。今日は森へ行くのだからと、母親がストールを一枚持たせたらしい。彼女の揃えた膝にかけられている。その端から、二本の足が少し出ているのが見える。

――細い足だ……。

足が弱いのだと聞いた。太陽の光に当たったこともないような、白い足。それは若干病的であったが、青年の目にはとても眩しく映っていた。

じっと見つめていると、少女が目を開けた。青年は我に返り、視線を足元に落としてぼさぼさの髪をかいた。

「……見えました」

「そ、そうか。どうだった?」

少し疲れたように見えるルゥの顔。青年は思わず立ち上がり、彼女の傍に歩み寄った。

「明日の伐採の折には、グーラは来ないと思います。でもあの……湧き水があって、その横にこんな感じの黄色い花が群生している、岩場みたいなところがありますか?」

ルゥは、手で花の形を示しながら尋ねた。

「あ、ああ。東の方にある。いつも休憩するところだ」

「その近くで、あなたや他の木こりさんたちがグーラに襲われるのを見ました」

「近づくなということか。……分かった」

「それ以外では襲われるところを見なかったけれど……でも、その、分からないんです。私が見られる景色は限られているし、もしかしたら私が見なかった別のところで、グーラが出るかもしれない」

「岩場の近くでも伐採する計画があった。それを中止することが分かっただけでも十分だ」

青年が励ますように言い、ルゥは少し慰められた。

「私が見た景色は、必ず本当に起こりました。少なくとも、今まではそうでした。でも、未来は常に変化します。私の予見がいつも正しいなんて、言えないんです」

「……」

「母さまは、そうならないように鍛えろと言うけれど、そんなこと……」

ルゥはいつの間にか、普段から抱える悩みを口にしていた。青年はルゥの横に座り、黙って聞いている。青年が何も言わないので、ルゥは独り言のようにしゃべり続けた。青年が驚いたり、咎めたりしなかったので、安心したのかもしれない。頭の中で渦巻いていた悩みやいらだち、自由への憧れなどが、取り留めのない言葉ではありながら、次々と零れ落ちた。やがて、彼女の目には涙が浮かび、言葉は途切れ途切れになってしまった。

「私はいつか、きっと……こんな仕事は……でも、でも……いいえ、きっと私は、一生、こう、こうして……」

文章にならない単語の羅列は、彼女の戸惑いや混乱を青年に伝える。青年は心を痛めた。

――一人で、悩んでいたんだな。

青年は、自分が口達者ではないことを自覚していた。不器用である自分には、年頃の娘の慰め方など分からない。だが、彼女の震える肩が助けを必要としているのは分かった。

「……っ」

少女はついに両膝を抱えるようにして、嗚咽を漏らした。青年は躊躇う。だが、意を決して腕を伸ばし、彼女の体を包むように抱いた。少女の肩が一瞬、震えた。驚いたのだろう。青年は腕を離そうとし、しかし再度その腕に力をこめた。ほんの少し、少女は緊張してこわばっていたが、やがて青年の胸によりかかり、涙を流した。声にならない声が、彼女の髪の下から漏れる。青年は少女の柔らかな髪をなで、彼女が落ち着くまで、ずっと抱きかかえていた。

静かな時間が流れ、ようやく泣き止んだ少女は体を離す。

「……ごめんなさい」

ルゥは恥ずかしさに顔を赤く染め、両手で涙をぬぐっている。

「いや」

「あの、私、あなたの名前も知らないんです」

「え……ああ、俺か。俺は、チェスター」

「チェスター」

確かめるように呼ぶルゥに、チェスターは黙って頷いて見せた。

「私は、ルクレリア。みんなルゥと呼ぶけれど、本当はルクレリアと言うんです」

「ルクレリア、か」

「ええ」

二人はまた黙って見つめあった。時はそのまま、二人の間をゆっくりと流れていった。

それからというもの、二人は密会を重ねた。

会うことを禁止されていたわけではないが、ルゥには恋愛などそもそも許されてはいなかったのである。彼女には既に婚約者がおり、相手はルゥの一家にとって大きな援助をもたらす人物だった。ルゥは、年も離れたその人物との結婚を納得して受け入れたわけではなかったが、小さな頃からそういうものだと思っていたので、特段不満を抱くこともなかった。彼女には「そんなのって変よ、私たちは自由に結婚すべきだわ」と話す友人はいなかったのである。人は、与えられた環境の中で生きるしかない。だが、今のルゥには望みがあった。

――外へ出たい。外で、あの人と暮らしたい。

束縛を切る事への憧憬なのか、それとも恋心なのか、彼女には区別がつかなかった。だが、チェスターとの時間は、彼女にとって紛れもなく「自由な時間」だった。

「また泉へ行きたいわ」

「連れていってやるよ」

「……無理よ」

「いや、連れて行く」

家人に気づかれぬよう、夜中にこっそりと家を抜け出し、街角の暗い路地で二人はいつまでも語り合った。いつか二人でもう一度行こう。森の泉での思い出は、二人にとってかけがえのないものだった。

だが、そんな甘い時間がいつまでも続くわけではない。

ついにルゥは家を出ることを禁じられた。

「あなたが夜、うちを出て行くところを見た人がいます」

「……」

「木こりと会っているそうね。町中や木こりギルドではすっかり噂よ。司祭の娘は木こりにぞっこんだってね」

「母さま」

「お黙りなさい、ルクレリア。言い訳は許しません」

「いい訳だなんて! ただ私は」

「駄目です。そんなことを許すわけには行きません。自分が何をしているか、分かってるの? 立場をわきまえなさい」

「……」

ルゥには、痛いほど分かっていた。司祭の能力がいかに高くとも、それを生かして糧を得るには仲介する事業者がいなければならない。援助を申し出る有力者との結婚は、必然であった。また、彼女には次の能力者を生むことも義務付けられている。生まれた子が司祭の能力があると決まったわけではないが、それでもその可能性は高いのだからと言われ続けてきた。どういう法則が働いているのかは分からないが、昔から短命な家系である。早く結婚して能力者を産むべし――それが彼女に課せられた運命だった。

「分かってるわ……でも、それでも……」

あの人が好きなの、という言葉を彼女は飲み込んだ。それは母への、また司祭を家業としてきたこの家への、反逆とも取れる決定打になり得るからである。

「……部屋へ戻りなさい」

母親は、苦しそうな顔をしていた。ルゥを愛していないわけではない。それもルゥは分かっていた。母親も、自分と同じ道を歩んできた。この家に生まれ、この家から出ることが叶わなかった母。その母を、ルゥも愛していた。母に対して、この家を出たいとは決して言えなかったのである。

それでも、ルゥはまだ悩んでいた。部屋へは戻らず、立ち尽くす。ここで部屋へ戻れば、恐らくもう二度とチェスターに会うこともない。そう思うと、どうしようもない痛みが彼女を襲う。ルゥは涙をこらえ、唇を噛み締めた。

「ルゥ?」

母親の問いかけは、ルゥに届かなかった。突然、彼女の心がざわめき立ち、ルゥは目を開いたまま硬直していたのである。その目には心配そうに覗き込む母親が映っていたが、その姿が透けた向こうに、小さな部屋が映っていた。木で組んだ小屋だろう、木のいい香りが漂っている。それにシチューの匂い。荒削りだが味のある、手作りの机と椅子。かまどの前に立つ自分と、チェスターの姿。そして、その横には……。

次の瞬間、ルゥは叫び、意識を失って倒れた。

「ルゥ! どうしたの、ルゥ、しっかりして」

母親が呼ぶ声で、女中と下男が二人慌ててやってきた。彼らは濡らしたタオルを額や頬に当て、ルゥの意識を呼び覚まそうとしたが、彼女は目を覚まさなかった。寝室に運んで寝かせたが、青白い顔のまま、ごくわずかな呼吸をゆっくりとしているだけである。医者を、と言って、母親が階下へ降りる。と扉を叩く音がした。

「夜分すみません」

扉を開けると、立っていたのはチェスターであった。意を決して尋ねてきたのだろう。その顔には緊張が見えた。

「娘さんに会わせてください、お願いします」

「だ、駄目です。今、その、寝ていますから」

母親は狼狽し、チェスターを押し出そうとしたが、チェスターはその様子がおかしいとすぐに気づいた。

「どいて下さい」

「出てって、出てってちょうだい! 娘には会わせません!」

泣きそうな顔で母親はチェスターの前に立ちふさがったが、チェスターはものともせず彼女を押しやり、家の中に踏み入った。そのまま階段を上がり、下男も押しのけて部屋へ入る。

「ルクレリア!」

たった、一声だった。

今まで何をしても目を覚まさなかった少女は、その声ですぐに目を開け、数回の瞬きの後、入ってきた男を見た。

「チェスター」

「来るんだ」

落ち着きを失ってうろたえる女中を尻目に、ルクレリアは寝台を下り、チェスターの元へと駆け寄った。足がもつれ、倒れこんだ彼女を、チェスターの腕がしっかりと抱く。

「俺と来い」

「……はい」

寝室を出ると、ちょうど母親が階段を登りきったところだった。

「ルゥ!」

「母さま、ごめんなさい。私、行くわ」

「そんな、嘘よ。ルゥ、ルゥ……嘘でしょ」

どうして良いか分からず、母親はただおろおろと彼女に手を差し伸べた。だが、ルゥの言葉にその手が止まる。

「……私、見えたの」

その言葉が、決定打だったに違いない。母親はがっくりとうなだれた。それを背に、チェスターはルクレリアを抱いて階段を下りていく。

家の外には馬が繋がれていた。チェスターは馬の背にルクレリアを乗せ、自分もその後ろにまたがる。そして、ルクレリアに確かめるような目線を注いだ。振り返ったルクレリアは、黙って頷く。そして、艶やかに笑った。

「行きましょう。私たちの未来が待ってるわ」

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