春雷

――冗談じゃない、冗談じゃないぞ!

俺は剣を闇雲に振り回した。が、小さな黒い虫が、そんな剣に当たるはずもない。奴らは凶悪な羽音を立てて襲い掛かる。ようやく振り切ったが、何箇所も刺されて肌がひりひりとしている。

「毒性は少ないので、大丈夫でしょう。この薬をお使いなさい」

じいさんが小さな薬つぼを差し出した。

「なんであんたは刺されてないんだ」

「さあ、神のご加護でしょうかね?」

……冗談じゃない。

「じじい、俺じゃあ信用ならないと言うのか!」

「失礼な事を言わないで頂きたい。私にはウォルターという名前があります」

冬だと言うのに、スカルカの酒場は人いきれで暑いくらいだった。夕食の時間という事もあって、これ以上ないというくらいに混み合っている。

「もう知るか! 勝手にしろ!」

大声を出した男は、老齢の男に取り合う事なく、席を立って行ってしまった。

「困りましたね」

「どうした?」

呟くじいさんに声をかけると、彼は「おや」と言うように俺を見た。かなりの年だと思うが、背は真っ直ぐで、声も若々しい。身なりも清潔だし、こんな場末の酒場では見かけない上品さだ。

「さっきの人に頼み事をしていたのですが、これからというところで断られてしまいました……やれやれ」

「何だか知れんが、俺が出来る事なら、代わりに引き受けようか?」

「あなたが?」

「ああ」

「失礼ですが、どうして突然、見知らぬ私の頼みごとを引き受けてくださるんでしょうか」

「いや何、退屈なのでな」

怪訝そうな顔をしている。無理もないか。

「俺はジャンドゥと言う。気ままに旅をしている風来坊さ。この町に来てしばらく経つ。そろそろまたどこかへ行こうかと思っていたが、先立つものを稼がねばならない」

「一人旅ですか?」

俺が頷くと、じいさんは「なるほど」と言って、俺の隣に腰掛けた。

「私の名はウォルター。頼みたい事と言うのは、私の護衛です。腕に自信はおありですか?」

「まあ……それなりに」

さぐるような目つき。俺は目を細め、じいさんの灰色がかった目を見つめた。何か、いわくがあるのかもしれない。

「いいでしょう。ではお願いします」

「目的地は?」

「イルバです」

「なんだ、近いじゃないか」

イルバは街道沿いの街で、規模だけなら首都レフォアにも劣らない大きさだ。今いるこの町からは馬で五日もかからない。道も平坦なはずだし、あたりは農村地帯で、いくつか森がある程度。近頃は盗賊が出るだの獣が出るだのといった噂も聞かない。

「何か特別な条件でもあるのか?」

「いいえ」

じいさんは真っ直ぐに俺を見て、首を振った。あまりにもきっぱりと即答すると、逆に怪しく思えるものだが……。

「何が起こっても、私を守っていただきたい。それだけです」

「……分かった」

契約は成立した。イルバに無事到着すると、金貨十枚が支払われる。……ちょっと高額すぎるな。再び不安が胸をよぎったが、気にしない事にした。

スカルカを発ってから二日間。まだ何も起こらない。

――こりゃ楽な仕事だ。

俺は鼻歌交じりで馬を歩かせていた。同じように馬に乗ったじいさんは黙ったままついてくる。沈黙が続いた。

「……退屈だな」

俺が言うと、意外にもじいさんは乗ってきた。

「ジャンドゥ殿は退屈なのがお嫌いですか?」

「まあな。だが、この世はいつも退屈だ」

「退屈なのはいいことですよ」

「何故そう思う?」

「平和だという事ですから」

「そりゃそうかもしれんが、する事がないというのは暇なものだ」

「あなたがまだお若いからでしょうね」

「どうなのかな」

下らぬやり取りをしていると、空が一転にわかに曇ってきた。じいさんの声音が急に緊張を帯びる。

「これは……雷が来ます」

「ほほぅ、雨も降っていないと言うのにか?」

「季節の変わり目には、雷の鳴る事があるんですよ」

「そりゃ知らなかった。俺は外の大陸から来たもんでな」

そう言う間にも雲はどんどん増えていく。西の方からやってきた雲は、確かに稲光をはらんでいた。そして、一筋の春雷が走った。

「……何かが起こりそうな気がします」

嫌な事を言うな、と、俺が返しかけた時だった。

「止まりな!」

道を塞ぐように、数頭の馬に乗った男たちが現れた。見るからに盗賊といった風体だ。雷を背景に盗賊の登場か。物語のようだな。

「退屈しのぎに丁度いいぜ」

「てめえ!」

奴らが剣を抜いて襲ってきた。俺も剣を抜き、応戦する。いつもならすぐに追い払えるが、今回はじいさんを守らねばならない。じいさんをかばいながら剣を交える。じいさんは器用に馬を操り、攻撃から身をかわしている。最終的に、盗賊たちは逃げ出した。

「覚えてやがれ!」

どうしてそう陳腐な台詞を口にするんだ。古今東西、逃げる悪者ってのはみな同じような事を言う。覚えているわけがないじゃないか。

「しかし珍しいな。ここらじゃ盗賊なんかにお目にかかる事は滅多にないんだが」

「そうですか」

「ああ。……そういやじいさん、あんたさっき、変な事言ってたな。『何かが起こりそうだ』とかなんとか」

「ええ、何か、そんな気がしたんです」

「妙な事もあるものだな」

その時は軽く流したのだが、これが始まりだった。それからというもの、じいさんが「何か起こる」と言う度に、本当に事件が起こった。

ここらに現れるという噂はこれっぽっちも聞かなかったが、盗賊や山賊という輩に三回遭った。迷いようのない道のはずが、二度も道に迷った。巣を壊したわけでもないのに、虫の大群に襲われた。ついには、元気で歩いていた馬が突然倒れた。

「なんなんだこれは!」

「妙な事もあるものですねぇ」

じいさんは余裕のある口ぶりだ。細い目はどこを見ているのか分からない。食えんじいさんだ。

「おいじいさん」

「おや、じいさんとは失礼な。私には……」

「ウォルター!」

「はい?」

「あんた、何者だ」

「どういう意味でしょうか」

「こんなに立て続けに事件が起こるなんておかしいぜ。しかも、まるであんたが予言しているかのようじゃないか」

「そういうつもりはありませんよ」

平然とした顔で言いやがって。笑顔さえ浮かべてやがる。

「ただ……そうですねぇ。どうも、私の行く先々ではこういう事が多いんですよ」

「それで護衛を雇ったっていうのか?」

「そうです」

「なるほど……グィンディラってやつだな」

「グィンディラ?」

「俺の国の貧乏神みたいなもんだ。不幸を呼び込むのさ。あんたはまさしくそれだ」

「失礼な」

眉をしかめるじいさんを見て、俺は笑った。

――しかし、これは大変な事になったな。

これから先、イルバに着くまでは退屈などと言っている暇がなさそうである。

「ここまで色々と起こりましたが、ジャンドゥ殿は頼りになりますな」

「んん?」

「イルバから先も護衛を頼みたいものです」

じいさんは屈託のない少年のような笑顔を浮かべた。

「……冗談じゃない」

肌寒さを感じはするものの、暖かく湿った空気は、紛れもなく春の匂いがする。

夜でもないのにどろっと濁ったような空を青白い光が切り裂き、ほんの一瞬、山の輪郭が浮かび上がった。

「また春雷か」

「何かが起こる前触れでしょうか」

「やめてくれ」

「おや、退屈なのが嫌いなんでしょう?」

「頼む、やめてくれ」

二頭の馬はイルバに向かって歩を進める。

俺は太陽神ハーディスに誓った。

イルバに着いたらこのじいさんとは縁を切ろう。

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