ほんの少しの寂しさと

窓の外を眺めれば、色鮮やかな夕焼けが雲を染めていた。木々の向こうに、太陽が少しずつ沈んでいく。太陽神ハーディスは今日の勤めを終え、人々の眠りの安息を祈りながらその姿を地平へと隠しつつあった。紺色と茜色の対比が美しい夕焼けの空。シンジゴ山脈の木々が陰となって、その輪郭をくっきりと浮かび上がらせている。きっと東の空にはもうメルィーズが姿を現わしているはずだ。この部屋の窓は西に向いてるから見えないけれど、空の色がそれを示している。

もうずいぶん暗くなっていることに気づく。部屋の明かりをつけていなかったから、部屋全体が夕焼けに染まってるようだ。夜が訪れる前の中途半端な暗さだけれど、嫌な雰囲気じゃない。いろんなものの影が長く伸びていて、私の影も机から床へ、床から壁へと伝っている。静かな夕方の時間は、私の大好きな安息の時間だ。これが終わってしまえば、次は夜中すぎまで静かな時間は訪れない。

小さな音に私が振り向いた時には、弟が扉の向こうから顔をのぞかせていた。

「分かってるわ。そろそろ時間でしょ」

「ん」

「いいけど、人の部屋を開けるときは声をかけなさいね」

弟は肩をすくめ、何も言わずに扉を閉めた。無口な性格なのだ。いつものことだから、私もさして気にしない。

扉の向こうからは既に喧騒が聞こえてきていた。そそくさと髪を結い上げ、真っ白な前掛けを身につける。それから、仕上げとばかりに鏡の前でにっと笑ってみた。よし! 行くか。

今日も私の戦いが始まる。

客は様々だ。若者から老人まで、旅人が主として多いが、この村生まれの奴も時々は来る。母のときからの馴染みの常連も来てくれるが、そういう人は夜遅くなってからだ。店を開けたばかりの時間帯には若い旅人が多い。腹を満たし、酒を飲み、そしてうまくいけば部屋は空いてるかと訊いてくれる。彼らは夜遅くまでは起きていない。旅の疲れがあるからだ。情報の交換もするんだろうが、お腹さえいっぱいになれば早々に退散するのが常だ。問題は、その次に来る客。彼らは他の店で既に飲んできている。下手すると店に来た途端、暴れたりする。これを追い出すのが大変。うちは良心的だから他のお客さんの迷惑になることは決して許していない。お客さんの中には喧嘩を煽ったりする人もいるけど、睨みつけて黙らせる。

まあ、いつもこんな感じで大変なのは確か。だけど、店がほとんど毎日盛況なのはありがたいことだ。夜も更ける頃合いになると酔っ払いも増えてくる。歌ったり踊ったりする人も出てきて、どんどん賑やかになってくると、こっちもその分忙しいけれど、楽しいのは大好きだからうきうきしてくる。たまに気分が乗ると私も客に混ざったりもする。どうやら今日も、声がかかったらしい。

「姉さん」

弟が店の奥から呼んでいる。近くの空いた盃をかき集めてお盆に乗せてから戻った。弟は仏頂面で店の中央にある机を指差している。

「ティレル! 聴かせてくれよ、アンタの父さんは勇敢だったんだろう? それを歌ってくれよ!」

顔を赤くして大きな声。あからさまに酔っ払ってるのは三軒隣の武器屋の親父だ。隣は……息子のダグか。

「けっ」

私の顔を見て目をそらした。あんにゃろ、なんでいっつもああなんだろ。嫌なら来なきゃいいのにね。ダグの親父がまた叫ぶ。

「おぉーい、こっち来て歌ってくれよぉ!」

「はいはい、歌ってあげるわよ! 私の得意な奴ね?」

弟が小さく溜息をつく。またか……って顔ね。歌ってる場合じゃないって言いたいわけよね。でも、お客が呼んでるんだからしょうがないでしょ? 私が楽しげだからだろうか、弟は溜息をつきながらも肩をすくめて注文の酒を注ぎ始めた。身を翻して、机に向かう。その勢いのまま、机に腰掛けると、周りの客から歓声が上がってちょっといい気分。大きな声で高らかに歌い出す。まわりの客の手拍子に乗って、足も軽やかに動き出し、隣に座っていた男の人が机をたたいて拍子をとり始める。みんなも口々に歌い、器をたたき、口笛を吹く。中には楽器を持ち出す人まであらわれて、あたりはあっという間に音楽の渦。私はその中心で歌い続けた。一曲が終わるとまた他の曲、それが終わればまた別の、と歌の注文は果てしない。私はその全てに笑顔で応えた。殆どの曲は明るく、ノリがいい。みんなの元気が出るような曲を選んで歌うからだ。

ようやく椅子に座り込んだのは、もう何曲歌ったか分からないほどの時間が過ぎてから。いつしか歌い疲れて、肩が軽く上下している。でも気持ちがいい疲労感と充足感。徐々に帰り始める客も出てきたけれど、中央の机の周りでは、客の男たちがまだ騒いでいる。

「お疲れさん! いつも通り、母さん譲りのいい歌声だな!」

「また来るからな、ティレル!」

口々に声をかけて帰っていくお客たちを、手を振りながら見送る。いきなり、大きな音を立ててダグが隣の椅子を引いた。そっぽを向きながら突き出しているのは、冷やしたキブール茶のようだった。

「ほらこれ飲めよ。……毎回毎回やりすぎだぜ、全くよ」

「ほっといてよ。好きなんだからいいの」

差し出された杯を一息に空ける。冷たいお茶が、熱い喉を通る感触が気持ちいい。

「とにかくさ……あんまり無理するなよ」

「わかってる」

「心配させるなよ」

「誰によ」

「いや、だからさ……」

ダグはうつむいて口篭もってしまった。私は息を整え、杯を持って立ち上がる。

「さ、そろそろ片付けもやらなきゃ。皿が溜まってるわ。お茶、ありがとね」

軽く手を振って、そのまま弟のいる店の奥へ向かった。気づけば夜はすっかり更けて、客もずいぶんと減っている。店のあちこちにぽつぽつと座って、なにやら話し込んでいるような人たちばかりだ。彼らもしばらくすれば席を立ち、我が家へと帰っていくのだろう。既に帰った人のお勘定は弟がしっかりやってくれただろうから安心だ。

「満室」

弟が一言。本当に無口な子。満室になったのは良かったわ。これで明日も大忙しだわね。手を洗うついでに食器洗いにとりかかる。そろそろ店を閉める時間になった。歌っていたからかもしれないけど、なんだかあっという間。いつも始まる前は長いような気がするけど、終わってしまえばあっという間で……。結局それは忙しいという証明なのだろうけど、意外と疲れないのが不思議といえば不思議かな。

食器は全部並べて乾かしておく。洗った布巾をぎゅっとしぼって机を拭いて回ると、弟がその後から椅子を机にあげていく。今日の一日が、こうして終わっていく。さっきまであれほど賑やかだった店も、いつの間にか弟と二人。……他には誰もいない。

ふと顔を上げると薄暗い店がやけに広く感じて、なんとなく怖くなった。この感じは……そうだ、母が亡くなったときと同じ感じ。母がいなくなる事など、考えたこともなかった私たち。たった二人きりで取り残されてしまったあの時と。世界はその時、私たちを残していってしまった。

――それはのどかな……本当にのどかな日々だった。

芝生にころがって眠りこける猫と弟。膝の上の本。涼やかな風でめくられる本と、それを押さえる私の手。木々を通して差し込む柔らかな夕方の陽光。空には雲が流れ、眼下に広がる山並みは美しく、小川のせせらぎと風のわたる音が聞こえる。夜になると、母が自慢の歌を聞かせてくれた。私と弟はいつも、夢の足音が近づいてくるまで、母の柔らかな声が優しく響くのを聴いていた。

幸せだったと思う。何気ないことが、どれだけ幸せか考えたこともなかった。ただ私は与えられる幸福に身を委ねていた。

村は平和で、昨日と何も変わらない暮らしを続けている。多くの人が行き交う峠の村。旅人は訪れ、そして去っていく。父もそうした旅人の一人だった。母はいつも誇らしげに言ったものだ、彼はとても強い戦士だった、でもすごく優しかったよ、と。記憶の中の父は背が高く、私と同じ黒髪で、日に焼けた浅黒い肌は長い旅の足跡を感じさせた。父の顔は色々な国の血が混ざっているようで、それもまた彼の冒険を感じさせた。きっとどこへ行っても、人々に頼られる存在だったのだろう。

父は村に訪れるたびに母が営む宿屋へ立ち寄り、そうして私と弟が生まれた。村に長くとどまることは決してなかったと母は言う。私も父の事は少ししか覚えていない。弟はほとんど覚えていないらしい。そんな父を愛していると言う母の気持ちは、私には分からない。母を愛しているなら、村に住んで……と父に泣きついたこともある。かすかな記憶。父は困ったような顔をしていたと思う。泣きじゃくる私をなだめたのはいつも母だった。わがままを言わないで、と。彼女自身は絶えず微笑みを浮かべていた。

そして時は流れ、年老いた母は戦争の時の小さな怪我が元で亡くなった。私と弟に残されたものは小さな宿屋と、母の想い出だけ。父は葬儀にも現れず、泣きじゃくる弟の手を引いて私はただ黙っているしかなかった。母の死後、父は一度村に現れた。そして、2度とは現れなかった。吟遊詩人の歌で伝え聞いた噂によると、どこか遠い異国の地では戦士の伝説が語り継がれるようになったという。百戦錬磨のその男は、地震で柱が倒れるのを支え、人々を逃がし、そして瓦礫に埋もれて死んでいったとか……。それが父かどうかなど、一介の宿屋の娘である私には確かめようもない。私たちには母も、そして父ももういないのだと思うしかなかった。母は一人娘で、祖父母もいない。私たちはこの世で二人きりになったのだ。

すぐに、宿屋を買いたいという人物が何人も現れた。南北の国を行き交う旅人が途切れることのないこの村では、宿屋はなにより安心な商売だからだ。しかも私たちの家は北からの入り口、門のすぐ近くにあった。抜け目のない商人や、恐ろしい風貌の屈強な男たちが何度も私の元を訪れ、手を変え品を変えて宿屋を手に入れようとした。その時私はまだ十七。世間知らずで、怖いものなどなかった。誰も助けてはくれなかったけれど、私は戦い、そして勝った。

部屋数が多すぎて客の相手をするのが辛いと気づくのは、難しいことじゃなかった。私は一階に酒場を開くことにし、酒場は人々の情報交換の場所として、それなりに儲かった。まだ若かった私の、肌を露出させた服装が客の目を引いたというのも……正直なところ認めざるを得ない。村の若い男たちにはからかわれたし、酔ったふりをして手を出そうとする奴もいた。感情的になりがちなもので、客と喧嘩しては、相手をたたき出すこともしばしばだったっけ。

そして、そんな怒涛のような生活が今でも続いているというわけ。生来、無口で無愛想な弟は宿屋の受付をしながら、料理を作ったり酒を注いだり。私はと言えば、人を雇えるほどの余裕もなく、酒場中を飛び回っている。疲れも忘れて、朝早くから夜遅くまで働いて……。こうして考えてみると、私には自分の時間というものがほとんどなかった。充実感だけは誰にも負けないけれど。ふと、自嘲的な笑いが口の端に浮かぶ。

机に頬杖をついて、小さく歌を口ずさんでみる。何を歌おうか。静かな歌がいいな。賑やかな店内で、旅の客相手に歌うような派手な奴じゃなく……そうだ、母の子守唄がいい。

瞳を閉じてゆっくりおやすみ
 傷ついた体を癒すの
 緑あふれる草原 青く澄んだ海
 遠くはるかな山並み 手を伸ばせば届くような空
 瞳を閉じて見る景色は あなただけの大切な故郷

 傷ついた心も いつかはそっと癒されていく
 明日はまた新しい一日が始まる
 大切なことを忘れないように
 夢見たことを諦めないように
 でも今日はもう 瞳を閉じて

この歌は私のとっておき。自分自身のために歌うもの。母が私たちに残してくれたもの。私にとっては、一番大切な母の想い出だ。眠れない夜は口ずさんでいると安心できる。

さあ、もう寝なくては。明日になればまた忙しい一日が始まる。机に置いていた杯を空けてから、軽くゆすぐ。どこかでトゥイーゴが長い遠吠えを響かせている。

誰もいなくなった店。もう怖いとは感じなかった。ここにあるのはただ、ほんの少しの寂しさと、優しい母の想い出。

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