Legend of The Last Dragon −第五章−

ハーディスは、徐々に輝きを失っていった。血のように赤く染まった岩肌が、不吉な予感を抱かせる。暮れ落ちる秋の夕陽は、夏のそれよりもずっと早い。風が低く、強く、唸っている。闇が刻一刻と深くなり、あれほど晴れ渡っていた空には、いつの間にか黒々とした雲がいくつも流れていた。

所々、道端にそびえ立つ岩が、道に影を落としている。四人はごつごつとした岩山を急ぎ足で、しかし一歩一歩を確かめながら注意深く歩いていた。足元は暗く、そこら中に転がっている石にいつ躓(つまづ)くとも限らない。山道があるとはいえ、大きな石をどかして多少歩きやすくしただけのものだ。少しずつ、あたりの景色が色を失っていき、闇が山全体を浸していく。誰も口を利かなかった。足音と、荒い息遣いだけが聞こえる。

山を一日で越えるのは、到底出来ない事だった。ほとんどの旅人は、山頂近くにある町デュレーで一泊する。ラマカサを朝早くに出発したなら、デュレーには夕方遅く到着する。しかし四人が領事フォマーに追われ、ラマカサを出たのは今日の午後の事。ハーディスはその輝きを柔らかなものに変え、地平線へ近づいていった。そして今やハーディスは山陰へと隠れつつあり、メルィーズが支配する時間が訪れようとしているのだった。

冷たい夜風を首筋に感じ、クリフはマントの襟を立てた。クレオが持つ火影(ほかげ)が赤く、小さく灯っている。クリフには、夜がどれだけ恐ろしいかよく分かっていた。闇の前に人間は屈服する。夜は自然の力が増すのだ。まして、ここは安全な町や村ではない。暗くなってから出歩くのは危険すぎる。それは、サナミィの森でもこの山でも同じ事だ。クリフはそれを直感的に感じていた。夜が深まる前に、一刻も早く町に辿り着きたい。その思いが列の先頭を行く彼の足を早めた。

双子のすぐ後ろで、エイルは珍しくも口を閉ざして歩き続けていた。ただし、彼は黙っていたいと思っているわけではない。話す余裕がないのである。最早ひきずるようにしか動かせない足と、薄く開いた唇から漏れる息。エイルは水色の瞳を苦しげに潤ませている。

一行の最後を歩くシキは、その様子を見て胸を痛めていた。夜の山道は、若き少年王子にとって非常に酷だろう。細い足で懸命に歩くエイルを助けてやりたいとは思えど、馬も歩けぬようなこの道では王子を背負って歩くのも難しい。休憩させるゆとりもない。エイルの肩が苦しそうに上下しているのを見ると、シキは自分も息苦しさを感じてならなかった。

ついに、ハーディスの姿が完全に見えなくなった。シンジゴ山脈が、夜に沈む。見る間に視界が暗くなり、すうっと寒気が押し寄せる。じんわりとかいた汗が冷えて、クレオの身体が震えた。明かりなど全くない山道を、四人はただひたすら先を目指して歩き続けている。彼らの他には誰もいず、何一つ、動く気配すらなかった。

いつの間にか、メルィーズが輝きを増している。今日の彼女はほぼ完全な円形を描いていた。星々で飾った夜空に君臨するメルィーズは、人々に畏敬の念を抱かせる女神であり、また同時に畏怖の対象ともなっている。その彼女をひときわ黒い雲が覆い隠した時、シキは気配を察して立ち止まった。短く、しかし強い調子で呼び止める。

「クリフ」

声の鋭さに思わず足を止めたクリフは、シキを振り返った。シキはその肩越しに、前方を見据えている。クリフは再度振り返り、進行方向の闇に目を凝らした。

「誰か、いる……」

クリフの言葉に反応したかのように、強い風が吹き渡った。再びメルィーズが姿を現す。眩(まばゆ)いまでの月光が、一人の男を照らし出した。

真朱(しんしゅ)色とでも言えばいいだろうか、深みのある赤い髪。高い身長と、それに見合うだけの強靭な体躯。柔らかという言葉にはおよそ程遠い、苦み走った顔立ち。太い眉の横には大きな切り傷が痕になっていて、あごは無精ひげで覆われている。年は三十をとうに越しているだろう。鎧すら身につけていないが、剣士として十分な貫禄と風格を備えていた。腰には五サッソほどの長さのシャムシールを帯びている。シキは、男が腕の立つ剣士だと直感して疑わなかった。

「思ったより色男だな」

低く太い声でそう言いながら、岩肌に寄りかかっていた男はゆっくりと身を起こした。左手を剣の柄にかけ、近づいてくる。シキは既に三人を後ろにかばい、慎重に身構えていた。

「ひでぇ悪人だって聞いてたが……人間、見た目じゃ測れねぇとはよく言ったもんだ」

「何者だ」

「俺の名前なんざ何でもいいんだよ。あんたがシキだな?」

「何故俺の名を……」

「面倒くせぇ。いいから剣を抜けや」

男はそう言いながら、自らのシャムシールを素早く抜いた。左手首を軽く捻ると、鞘を放り投げる。心当たりがなくとも、戦いは避けられないようだった。デュレーは男の立つ道の先にある。エイルたちのことを思えば逃げるわけにもいかない。シキは覚悟を決めて、腰の長剣を抜き放った。

相手の目は、ひたとシキに据えられている。クリフたちなど、全く眼中にない。それを見て取ったシキは、三人と距離を取った。彼らを巻き込む危険を避け、赤毛の男と対峙する。

メルィーズは戦いの行方が気になるのか、姿を隠すことなくその光を投げかけていた。闘技場での戦いとはまた違う緊迫感が漂う。ハーディスに見守られた武闘大会は明るく、地面は平らだった。だが、ここは違う。満月とはいえ夜の山道。足場も悪く、道幅も狭い。わざわざここで待ち伏せしていたのなら、相手には地の利があるのかも知れない。シキにとっては不利な状況と言わざるを得なかった。

――油断出来んな。

シキは息を殺し、体中に力を漲(みなぎ)らせて時を待った。ほんの僅かな、一瞬の隙を突かねばならない。何も言わずとも、二人の男の間には同じ空気が流れていた。言葉には出来ぬ、強いて言うなら気迫とでも言うべき、とてつもなく熱い空気が二人の身体から立ち昇っている。お互いの視線は、ぴくりとも動かない。砂利を踏んだシキの長靴(ちょうか)が、小さな音を立てた。赤毛の男が、それとほぼ同時に動く。当然のことながら、シキも素早く反応していた。常人の目では追い切れないほどの速さで、彼らは幾度も切り結ぶ。湾曲した刀身のシャムシールと真っ直ぐな長剣が、かち合うたびに青白い火花を散らす。

力量は、ほぼ互角だった。しかし赤毛の男の剣は鋭く、地の利と経験を生かしている分、シキは苦戦を強いられている。幾度か剣を交えた後、二人は再び動きを止めた。緊張は解かず、絶えず間合いを計りながら息を整える。

「へぇ、若い割にゃやるじゃねぇか、色男」

赤毛の男は、満足げとでも言うかのような笑みを浮かべている。シキは言葉を発する事なく、ただ視線を返した。

――ヴァシーリーほど力はないが、技量では勝るとも劣らない。剣は恐らく独学だろうが……恐ろしく強い。こんな男、城にいては見(まみ)える事もなかっただろう。これは、負けられんな。

口の端に、かすかな笑みが浮かぶ。それは、シキにとって滅多にない事だった。

自分より強い者などいくらでもいる。幾人もの強者と実際に戦った経験もある。しかし自ら望んで戦ってみたいと思った事は、そして倒したいという感情に駆られた事はまずなかった。シキは、ごくりと唾を飲み込んだ。不利な状況に変わりはない。しかし、どこか楽しんでいる自分がいる。シキはそんな自分に驚きはしたが、嫌悪感は抱かなかった。

戦いは、延々と続いた。メルィーズが雲の影に隠れることもなく、長い時間が過ぎた。二人はともに精神力を消耗し、息も荒い。

――これ以上は……。

シキがそう胸の内で呟いた時、赤毛の男が低い声で言った。

「そろそろ勝負をつけるか」

それを合図にしたかのように、二人は弾かれたように動いた。メルィーズの光が、二振りの剣の刃を白く閃(ひらめ)かせる。剣戟(けんげき)が、岩山に響く。シャムシールの刃を跳ね返そうとした刹那、シキの膝が疼(うず)いた。ヴァシーリーに受けた最後の一撃の傷である。踏み留まったはずの膝から一瞬力が抜け、足が岩の上を滑る。

「くっ!」

見守っていた三人は息を飲んだ。ごく僅かの隙。相手には、それで十分だった。間違いなく止めをさせるはずだった。しかし、赤毛の男は剣を振り下ろさない。踏み込もうとした足を引き、シキが体勢を整えるのを待った。すぐに持ち直したシキが、再び剣を構える。二人はお互いの力量と、正しい戦いのやり方に満足しているようだった。

その時。今までずっと天空に輝いていたメルィーズが、突然雲に覆い隠された。その場の誰もが動きを止める。人工的な光など何一つない山中。真の闇が全てを飲み込み、何もかもが影の中に消えた。

暗闇に残されたのは、ほんの小さな灯りだった。宿屋の老婆が持たせてくれた火種である。クレオが持っていたそれだけが、闇に赤く、ほのかに浮かび上がっていた。

「あっ!」

突然クレオの悲鳴が聞こえ、クリフはたじろいだ。声と同時にクレオが持っていた火種が落ち、その姿が見えなくなる。突然の暗闇で、目が利かない。クリフは必死で神経を尖らせ、クレオを探した。空中に伸ばした手が、エイルの肩に触れる。

「ク、クレオがいない!」

エイルもクレオの声に驚いて探していたようだ。クレオは、自分とエイルの間にいたはず。ひやりとしたものがクリフの背中を這う。恐怖感と焦燥感に駆られ、彼は双子の妹の姿を捜し求めた。

「クレオ、クレオ!」

「そんなとこにゃいねぇよ、ひゃーっはっはっは」

この場にいるはずのない男の笑い声が、少し離れたところから聞こえる。クリフはその声に聞き覚えがあった。

目が暗闇に慣れる前に、気まぐれな風と雲がメルィーズの姿を空に出現させる。クリフが思った通りの男が、クレオの首に短剣を突きつけているのが見えた。

「クレオ!」

「クリフ……」

男は左腕でクレオを羽交い絞めにし、短剣をその首に添わせていた。濃い青の髪を揺らし、男は再び下品な笑い声を上げる。それからふっと冷淡な表情を浮かべ、シキに向き直った。やぶ睨みの目を更に細めて睨みつける。

「よお、シキ」

「お前は……イマネムか!」

「十連勝のお祝いも、武闘大会優勝のお祝いも言ってなかったからよぉ」

イマネムの目は言葉と裏腹に、復讐の炎に燃えていた。シキは、イマネムに向かって剣を構え直す。

「再び相見(あいまみ)えようというのか」

「けっ、あんたの相手は俺じゃねぇよ。なぁ、アザムの旦那」

シャムシールを手にした男は黙って事の成り行きを見守っていた。イマネムの言葉に振り返れば、アザムと呼ばれたその男が剣を下ろしたのが目に入る。その様子は、先程までとまるで違っていた。シキと戦っている間中、彼は楽しげにすら見えたのだが、今はその瞳にあからさまな侮蔑(ぶべつ)の色を浮かべている。そんな事にも気づかぬイマネムは、大声を張り上げる。

「何をぼーっとしてやがんでぇ! 早くシキをやっちまってくれよ!」

「話が違うじゃねぇか、イマネム」

「んなこたぁどうでもいいんだよ、さあ早く、そいつを殺しちまえ!」

イマネムは焦ったように言ったが、アザムはそれに答えず剣を持ち直した。

「こいつは悪者じゃねえ」

「ちっ、変なとこで正義感出しやがって……。おい、俺をやろうったって無駄だぜ。こいつを忘れたかぁ、ひゃはははは」

そう言うと、イマネムは人質であるクレオをますます強く締め付けた。クレオは眉根を寄せ、苦しそうなうめき声を上げる。その目に涙が滲んでいるのを見て、クリフが唇を噛む。

「『汚い野郎』はお前じゃねぇか」

意味深(いみぶか)な言葉とともに、アザムは唾を吐き捨てた。悔しげに歯噛みする様子を見せながら、しかしその目が鋭く光る。

シキとアザムの視線が交差したのは、ほんの一瞬だった。その次の瞬間には、二人がいた場所には影も残っていない。左右に分かれた、その早すぎる動きを捉えきれずにイマネムは焦った。アザムの投げた短剣が空を切って飛ぶ。短剣はイマネムの右足に突き刺さり、悲鳴が上がった。その隙にシキが距離を詰めている。イマネムの左腕が緩んだおかげでクレオは逃げ出し、間髪入れずに長剣がイマネムの喉に突きつけられた。剣先が浅黒い肌に食い込む。

「ひぃっ!」

自分の鼻先、至近距離まで真顔のシキが迫り、イマネムの顔が引きつる。

「こ、殺さ……」

声が掠(かす)れ、最後まで言うことすら出来ない。シキは無言のまま動かない。長剣をその首に突きつけたまま、イマネムを睨みつけて静止している。

「お、お、俺が悪かった……ここ、殺さないでくれ」

イマネムは喉を鳴らすと、小さな声で訴えた。

「……殺す価値もない」

そう呟くと、シキは力を抜いて離れた。イマネムの身体は途端に崩れ落ちる。シキが剣を収めているところへ、アザムが歩み寄ってきた。億劫そうな顔つきで、息を一つ、吐き出す。

「こいつとは以前、何度か傭兵の仕事を一緒にした事があってな。昨日、町で話を持ちかけてきた時は信用したんだが、どうやら俺は見る目がねぇ。……性根の腐った野郎だ」

アザムはそう言いながら、解いた腰紐でイマネムの両手を縛り上げた。イマネムはといえば、シキの剣幕に恐れをなしたのか、放心したように力がない。恐怖に震えながら座り込んでいる。アザムはそれに目もくれず、呆れたように言った。

「『シキを十連勝させたら武闘大会が盛り上がること間違いなし、そうなれば報奨金はお前のものだ』。フォマーにそう言われて八百長試合をしたと言ってたが、こいつじゃ元々あんたに勝てそうにねぇな」

「わざと負けるような相手と戦った記憶はない」

「ははは、あんたは真面目そうだからな。こいつ、『シキは報奨金泥棒だ、俺の物になるはずの金を盗んで逃げた、汚い野郎だ』って言いやがったんだぜ。まあ俺は相手が強いって聞いたから、理由はともかく引き受けたんだけどな」

「フォマーに追われたのは私兵になれという話を断ったからだ」

「そんな事だろうと思ったぜ。……じゃ、こいつは俺がラマカサにしょっぴいてくか」

「頼めるか。俺たちはなるべく早くデュレーへ行きたいんだ」

「おう、任せろ」

アザムは強面(こわもて)だったが、笑うと意外に愛嬌がある。恐怖から解放されたクレオと安堵している三人を見て、満足したようにもう一度笑った。

それから、すっくと立ち上がる。何故か、今の今まで浮かんでいた穏やかな笑みは姿を消し、シキに向き直った表情は真剣そのものだ。赤い前髪の奥で、双眸が不敵な光を湛えている。

「じゃ、続きをやるか」

クリフたちの目が驚きに見開かれる。しかしシキは無言のまま長剣を抜き放った。

「乗ってくると思ったぜ」

アザムもシャムシールを抜く。シキはにこりともせず、しかしどこか嬉しそうな声音で言った。

「決着はつけるべきだろう」

二人の剣が打ち振るわれ、硬い金属音が空気を震わせる。剣を合わせたままでアザムがにやりと笑い、シキは黙ってその目を見返した。エイルは何が何だか分からずにおろおろと二人を見ているばかりだ。クリフとクレオは顔を見合わせ、頷きあっている。

決着はなかなかつかなかった。メルィーズは時に隠れ、時に輝きながら夜空を移動していく。もう、真夜中と言っていい時刻だった。剣戟の合間に、小さな昆虫が羽根をすり合わせる音がほんのかすかに聞こえている。三人はじっと黙って戦いを見守り続けていた。エイルは寒さに膝を抱え、唇を尖らしたままである。

ふと、クリフがあたりを見回した。

「どうしたの?」

「何か、聞こえたんだ」

「何かって、何が……」

クレオがそこまで言いかけた時、彼女の耳にもそれがはっきりと聞こえた。低く抑えたようなそれが何の音なのか、双子が同時に気づく。何も気づいていないエイルに目を走らせ、クリフは咄嗟(とっさ)に彼を突き飛ばした。クレオも同時に飛び退いている。

「なっ、何を」

間をおかず、巨大な灰色の影が岩陰から飛び出した。エイルが今の今まで立っていた地面に、鋭い爪が食い込む。エイルが、声にならない悲鳴を上げた。

「……っ!」

「走れ! 早く!」

クリフがエイルの腕を掴み、三人は無我夢中で走った。シキとアザムに駆け寄り、二人の剣士は双子とエイルを挟むように立ちはだかる。五人が集まった時には、既に獣たちが彼らを囲んでいた。巨大な獣が、それも十数頭の獰猛(どうもう)な獣が、よだれを垂らして炯々(けいけい)と目を光らせている。

それは山犬、もしくは狼によく似ていた。だが、似ても似つかない、とも言える。クルイークと呼ばれるその獣は、大きさだけで言えば熊ほどもあった。肩の高さはクリフの背と同じほどで、頭から尾まで十サッソ以上あるものも少なくない。赤く光る両眼がその恐ろしさを象徴している。大きく裂けた口にはしまい切れないほどの牙が並び、特に二本の犬歯は異様なまでに発達していた。

「……ちっ、ここまで気づかなかったとは」

アザムが舌打ちをし、シキがそれに同意して頷く。

「不覚だったな」

エイルは恐怖のあまり、目に涙を浮かべて硬直している。その肩に優しく手を置きながら、シキはなるべく緊張が伝わらないことを願って言った。

「エイル様、ご安心を。私がお守りします」

クレオは双子の兄の腕にしがみついていた。足に力が入らず、小刻みに震えている。一頭の、特に大きなクルイークが唸ると、彼女はより一層クリフに身をすり寄せた。

「ど、どうしよう、どうしようクリフ……」

「大丈夫だよ、クレオ」

妹の名を口に出すと、身体の震えが止まった。クレオが震えれば震えるほど、クリフは落ち着きを取り戻していくような、そんな気がした。興奮を抑えてシキを見上げる。

「剣や弓だけで、何とかなるかな」

シキはすぐに答えず、口をつぐんでいる。その間にもクルイークたちはじりじりと輪を縮めてくる。

「集まってちゃまずい。分散するんだ」

アザムが落ち着いた声で言った。

「俺とあんたがいりゃ血路くらい作れる」

「……そうだな」

「そんな! 俺も戦うよ」

慌てるクリフに、シキはゆっくりと言い聞かせる。

「いいか、クリフ。後ろを見ないで走るんだ。二人を連れてデュレーへ行け。分かったな」

文句を挟む隙はなく、その迫力に対抗する術もなかった。「シキはどうするのか」と聞き返すことも出来ず、クリフは唇を引き結んで頷いた。

クルイークたちは、獲物を徐々に追い詰めつつあった。僅かに開いた口から唸り声を上げ、その大きな牙をむいている。いつでも飛びかかれるよう腰を落とし、四肢(しし)に力をこめて、彼らは今や攻撃態勢を万端に整えていた。後は、きっかけを待つだけである。

だが、エイルにも限界が近づいていた。潤んだ水色の瞳が恐怖におののき、乾いた唇が極度の不安でわなないている。高まる緊張に耐え切れなくなったのだろう、彼は突如、悲鳴ともつかぬ叫び声を上げた。

「い……嫌だ、嫌だ怖い!」

錯乱状態になってしまったエイルの声は、シキ以下四人の心臓を握りつぶした。クルイークたちが一斉に動く。咆哮を上げ、凄まじい勢いで獲物たちに襲い掛かる。シキの長剣が素早く最初の一頭の足を払い、アザムのシャムシールがその頭をかち割る。クリフは、エイルの腕を掴んで走り出していた。アザムとシキが作った僅かな隙間が見える。双子とエイルは死に物狂いでそこを駆け抜けた。クリフが短剣を振り回し、追ってこようとする一頭を必死で退ける。そのクルイークは、アザムが投げた短剣が胴に刺さって苦悶の叫びを上げた。

「エイル様を頼んだぞ!」

シキが叫ぶ声を後ろに聴きながら、クリフは振り返ることなく走り続けた。歯を食いしばり、エイルの腕をぎゅっと握ったまま。

その場に残った二人の剣士は、息つく間もなく剣を振るい続けた。大型獣相手に自分の身を守るだけでも困難だというのに、彼らはクルイークたちが逃げた三人を追わないようにしなければならなかった。既に長い時間を戦いに費やしていた二人は、体力と精神力の双方ともに消耗しすぎていた。しかし、ついに最後のクルイークがどうと倒れ、二人の荒い息使いだけがその場に残った。倒れているクルイークは十頭以上。その全てが息絶えている。

「よお、大丈夫か」

「……」

答えがないことを不審に思ったアザムは、爪痕の残る左腕を押さえながらシキに近づいた。シキは無言のまま、長剣を支えに立ち尽くしている。突然、まるで耐え切れないとでもいうように、その身体ががっくりと沈んだ。

「お、おい!」

シキの正面に回り、慌てて抱き起こす。その目に、鮮やか過ぎる色彩が飛び込んできた。右足の膝上あたりの服が破れ、大量の出血と深くえぐれた傷口が見える。

「やられたな。意識はあるか?」

「あ、ああ。すまん、一瞬暗くなって……」

「血が足りなくなったんだろうな。あーあ、こりゃひでぇ。一生ものの痕が残るぜ」

「そんな事はいい。それより彼らが心配だ。数頭取り逃がしたから……つぅっ」

「馬鹿だな、そんな足で走れるわけねぇだろうが。まずは止血だ」

言いながら服の袖を素早く引きちぎり、更にそれを二つに裂く。アザムは二枚の布を繋いで、シキの足の付け根にきつく縛り付けた。そこを縛れば血が止まる事を知っている者の、慣れた手つきである。

シキは傷の近くの布地をさらに大きく裂いた。血で汚れた布地を捨て、まだしも綺麗な部分で傷の周辺を拭う。その表情だけを見ているならば、どれほどの苦痛に耐えているか、あまり分からないかも知れない。しかし、額や首筋には大粒の汗が噴き出していた。

「これで何とか歩けるか」

アザムの言葉に、痛みを抑えて頷く。アザムはその傷を眺めやりながら、嘆息する。

「俺がここで待ってろと言っても、お前はあの子らを追うんだろうな」

「もちろんだ」

「若いな。……まあ、気持ちは分かる。じゃ、俺はあの馬鹿をしょっ引くとするか」

「生きてるのか?」

その問いは最もだ、と言うようにアザムは片眉をあげた。クルイークの死体を乗り越え、一アルカッソほど離れたところに転がっているイマネムを見に行く。そしてすぐに肩をすくめて帰ってきた。

「色々と手間が省けたみたいだぜ」

「……」

「なんだ、同情してるのか? ああいう奴にふさわしい末路だと思うがな」

「いや、イマネムの事はいい。……俺はもう行く」

「一緒に行ってやりたいとこだが……今はメルの城主に雇われてるもんでな、朝までにラマカサへ戻らにゃ」

「構わん。……世話になった」

「決着がつけられなかった事以外は忘れてくれて構わねぇよ」

シキはそれに応えてかすかな笑みを浮かべると、剣の血を拭(ぬぐ)って鞘に収めた。アザムが再び、深く息を吐く。

「そういや、きちんと名乗ってもいなかったな。俺はアザム=イル=ジード。ちんけな傭兵だ。あんたは?」

「シキ=ヴェルドーレだ。レノア王国の近衛隊騎士……だった。大昔の話だ」

「へっ、妙に説得力がありやがるぜ。……じゃあな、次に会うまで死ぬなよ」

「お互いにな」

シキは、アザムが立ち去るのをゆっくり見てはいなかった。満足に動かない右足をかばうことすらせず、山を登り始める。メルィーズはその頭上高く、何もなかったかのような顔で輝いていた。

手に持っていたはずの灯火が、いつの間にかなくなっている。何度も転んだせいで服の裾は破れ、手足にも擦り傷がいくつも出来ていた。風が鳴る音と、切れ切れの息遣いが聞こえる。ただし、聞こえる息遣いは一つだけ。自分の呼吸音だけだった。

「……っ」

幾度となく拭った涙が、再び頬を伝う。汚れた顔に、再び涙の筋がついた。重い足は、もう動かない。前後左右を見回しても、誰の姿も見えず、もう何の音も聞こえなかった。しゃくりあげる自分の声が、やけに大きく響く。堪えきれず、クレオはしゃがみこんだ。

「もう嫌……どうすればいいの、怖いよ……」

頭を抱えて目を閉じても、悪夢は醒めない。どこまでも続くかのような山道、ごつごつとした岩肌、吹き渡る夜風。サナミィの村にいた頃はあれほど優しく見えたメルィーズも、今は冷酷なまでに白く、冷え冷えとした光を投げかけている。彼女は見知らぬ山中で、独りきりだった。耐え切れず、嗚咽(おえつ)が漏れる。一度泣き出したら、もう、駄目だった。次々と涙が溢れ、身体の震えは止まらない。

「誰か……助けて……助けてよぉ!」

小さく叫んだ声は、どこまでも虚しく響く。押し寄せる孤独が今や彼女を完全に支配し、押し潰そうとしていた。誰でもいい、誰かがそばにいてくれたら……。そんなクレオの希望は叶えられる事なく、助けが来る気配もなかった。クレオは独りきりで、取り残されてしまったのである。

クレオが孤独に苛(さいな)まれている、その場所から半ロッカほど離れたところにクリフとエイルはいた。

「ク、クリフ……どうするんだ、どう、どうすれば……」

「しっ」

二人は、切り立った岩壁を背にしていた。左側も岩が切り立っていて、右側は崖が落ち込んでいる。そして正面には、二頭のクルイークが歯茎をむき出し、よだれをたらしていた。一頭はクリフの正面で、もう一頭はその斜め後ろで、頭を低くして身構えている。クルイークたちは歓喜の唸り声を上げながら、いつ飛び掛ろうかと算段しているように見えた。一歩でも動いて逃げようとすれば、たちまち飛び掛ってくるだろう。

まさに絶体絶命、といった状況である。普通の人間ならば目を背けて震える。事実、エイルはクリフの影に隠れるようにして目をぎゅっとつぶっていた。しかし、クリフは違った。ラマカサで買った鋼の弓を左手に携え、両足を開いてしっかりと立っている。岩壁を背にしてクルイークたちと向かい合った瞬間から、クリフはそうしてぴくりとも動かなかった。

――目を逸らしてはいけない。

その言葉を、何度言われたか知れない。サナミィの森で狩りをする時でも、危険な目に遭う可能性はあった。実際に、猪と対峙した事もある。父は息子に厳しく言い聞かせていた。どんな獣に出くわした時でも、相手を恐れずに睨め。決して目を背けてはいけない。怯えた様子を見せてもいけない。大声を出して騒いでもいけない。目を見て、時を待つのだ。父はそう言った。それから、決して諦めてはいけない、とも。

怖がっている様子を相手に悟られるわけにはいかない。そう思い、ともすれば震えだしそうな両足を踏みしめる。助けは、来ない。シキが来るなどとは、クリフは考えようともしなかった。

――俺がやらなくちゃ駄目なんだ。

ほんの一瞬でも、隙を見せたら全てが終わる。クルイークたちは嬉々として襲いかかり、柔らかな獲物を牙で裂き、骨まで食い尽くすだろう。彼らは低く唸りながらも、今はまだ近寄ろうとしない。睨み合いはいつまで続くのだろうか。長い時間が経てば、結局はやられてしまう。精神力を消耗し尽くさないうちに、何か手を打たなければならなかった。

一頭倒せても、その間にもう一頭に襲われる。エイルだけを逃がそうか、という考えが頭をよぎった。けれどクリフ一人で二頭を倒し、エイルを追わないようにするなどという事が出来るだろうか。仮にエイルが逃げられたとしても、一人で崖を登り、クレオやシキと出会う事が出来るだろうか。クリフは、頭の中に見え隠れする「死」という単語を、必死に打ち払った。後ろから、エイルのか細い声が聞こえる。

「ク、クリフ」

エイルは、立っているだけで精一杯だった。早鐘(はやがね)のように高鳴る心臓と、乾き切った唇。大きな瞳を満たす涙で視界が霞む。喉が詰まったようになり、息もろくに出来ない。クリフの肩越しに見える獣は、実際の数倍も大きいように思えた。その鋭い爪、牙、光る目……巨大な牙から唾液が滴っている。エイルは思わず失神しそうになった。腰から下がなくなってしまったように、力が入らない。何もしていないのに、苦しい呼吸はどんどん早まっていく。怖がっていると思われたくはないが、もうすっかり泣き顔である。

「クリフ、あ……あれを何とかしろ」

当然の事だが、クリフはその言葉に振り向きもしない。文字通り、微動だにしなかった。エイルはそれについ苛立つ。がくがくと揺れる膝を押さえ、エイルは欠片(かけら)ばかりの威厳を保とうと躍起(やっき)になった。相変わらず背中に隠れたまま、早口に言う。

「ど、どうするつもりなんだ……。このままというわけにはいかないんだぞ。あれは、あれは私を襲うつもりなんだろう」

「分かってる。今、考えてる。獣は手負いにしたら余計危険だ。一頭を確実に殺した直後にもう一頭も殺さなくちゃいけない」

「え……あれを、こ、殺すのか」

「じゃなきゃこっちが食われる」

あまりにもあっさりと口にするクリフに、エイルは絶句した。何かを殺すという事も、自分が死ぬという事も、幼いエイルには非現実的すぎて受け入れられなかった。このままでは恐ろしい事になる、死んでしまうかも知れない。漠然と、そう思ってはいた。しかしあの巨大な獣に自分が食べられるなどと言うのは、この状況になってさえ、エイルには考えられなかった。まざまざとした死を想像して、エイルの全身から力が抜ける。

「そんな……そんなの、嫌だ」

「一撃で倒さなくちゃ駄目なんだ」

クリフの耳には、エイルの言葉が届いていないようだった。隙を見せぬようにして、矢筒に手を回す。クルイークをしかと睨みつけたまま、ゆっくりと二本の矢を引き抜く。獣たちの唸り声が、ぐっと高まった。

「クレオが……エイルは火をつける魔法を知ってるって言ってた。これを火矢に出来れば勝てる可能性がある」

そう言って一本を後ろ手に渡す。目の前に突き出されたそれをこわごわ受け取ったが、エイルはすぐに首を振った。

「で、出来ない」

「出来なくても、やるしかないんだ」

「だって、も、燃やすものが、何もないし、こんな状態じゃ、集中出来ない……」

「やるんだ。早く」

「でも……でも無理だ。出来な……」

「いい加減にしろ!」

クリフの鋭い声に、エイルは息をのんだ。出来ない、と言いかけた口が開いたままになり、大きな瞳が食い入るようにクリフの後頭部を見つめている。クリフは前を向いたまま、早口で続けた。

「やらなきゃ死ぬんだ。早くやれよ!」

今まで身じろぎもしなかった一頭のクルイークが、姿勢を変える。すぐ後ろのクルイークは、徐々に距離を詰め始めた。二頭は、獲物を逃がさぬように攻撃態勢を整えている。

クリフはゆっくりと矢を番(つが)え、狙いを定める。瞬き一つしないはしばみ色の目が、言葉にならぬ迫力をもって獣たちに据えられていた。

その後ろで、エイルが何かを唱えている。矢に右手をかざし、小さな声で必死に念じるが、何事も起こらない。両手はじっとりと汗ばみ、水色の瞳はきつく閉じられていた。単語を組み合わせた短い言葉を、何度も何度も口にする。永遠とも思える時間が、砂時計の砂が流れ落ちるように、ゆっくりと過ぎていった。

クリフが乾いた唇を湿らせた時、背後で小さな音が聞こえた。それは火がつく時の、あの特有の音だった。

「貸せ!」

クリフの声と、ほぼ同時だった。一頭のクルイークが咆哮を上げる。クリフの身体に震えは走らなかった。飛びかかってくる巨体を真っ直ぐに見、しっかりと定めた狙いに向かって火矢を射る。力強く引かれた鋼の弓が鳴り、矢はクルイークの喉元深くに突き刺さった。魂切(たまぎ)る絶叫が闇を切り裂く。間髪いれず、小指に手挟(たばさ)んでいた二の矢を放つ。それがもう一頭の目に命中したのを見ながら、素早く矢筒から次の矢を引き抜いた。のた打ち回る獣を狙うのは困難だったが、三の矢は見事にその首に刺さった。クルイークは激しく痙攣(けいれん)し、やがて、動かなくなったのである。

いつでも使えるようにくわえていた矢を口から外し、大きく息をつく。脱力感を感じながら後ろを見ると、エイルが呆然と座り込んでいた。声をかけるべきかどうかためらう。クリフは一度エイルに背を向けると、息絶えているクルイークの死体に近づいた。

もう二度と動かない事を確認し、太い前足を乗り越える。自分の何倍もありそうな頭。大きく開いた口と、光を失ってどんよりと濁(にご)った目。だらりと垂れた舌は、二サッソ以上もありそうだった。口を覗くと、その奥に矢が深く突き刺さっている。それを抜くのは諦め、もう一頭の目から矢を引き抜いた。喉に刺さった矢は折れている。結局、一本だけを手にしてクリフはエイルのところへ戻ってきた。

「大丈夫?」

しゃがみこんでエイルの顔を覗きこむ。さっきまでの姿勢のまま、エイルは視線だけをクリフに投げた。力が入らず、動けないようだ。

「その、さっきはごめん。王子様なのに……」

そう言いながら、クリフは頭をかいている。反省しきりといった様子は、凛として矢を放ったクリフとは別人のようだった。エイルは口を半分開けたまま、その顔を見つめている。

「あ、いやその、申し訳ありませんでした」

慌てて膝をつき、エイルの表情を伺うように見るクリフ。だがエイルは、小さく首を振った。

「いいんだ……。誉めてとらせる……いや、違うんだ……」

か細い声で言うと、エイルはうつむいてしまった。クリフが立ち上がり、座り込んでいるエイルに手を差し伸べる。

「立てますか?」

「……うん」

「クレオとシキを探しに行きましょう」

「クリフ……敬語は、いい」

「え?」

「……さっきは、本当に死ぬかと思ったんだ。だけど、助かった。クリフが、やったからだ。その、お前のおかげで、助かったから……だからその、なんて言えばいいんだ? 誉めたいんじゃないんだ、その……」

「『ありがとう』でいいと思うな」

見上げると、クリフは母親譲りの優しい笑みを浮かべている。

「あ、ありがとう」

「こっちこそ! エイルが火をつけてくれたから、助かったよ。ありがとう」

エイルは顔を赤くして立ち上がり、服の埃をはたいた。クリフは持っていた矢を矢筒にしまう。それから二人は揃って背後の崖を見上げた。彼らはこの上の山道から滑り落ちてきたのである。エイルが、恐る恐る口を開く。

「ここは登れないだろう。どこか上に行ける道を探さねば」

「そっか、そうだね。よしっ、早いとこ道に戻ってクレオを探そう」

二人はクルイークの死体をまわりこむようにして、岩壁伝いに歩き始めた。

あれから、どれほどの時が経ったのだろうか。クレオは泣き疲れ、岩のくぼみに座り込んでいた。時折すすり泣きはするが、もう声を上げて泣く元気もない。山の空気は澄んでいて、頬を撫でる夜風は冷たい。彼女は両腕で体を抱えるようにしてうずくまっていた。デュレーの方向は分かっているが、独りで歩き続ける気力も体力もない。

まるで幼い子供のように膝を抱えていた彼女が顔を上げたのは、砂利道を踏みしめる、ゆっくりとした足音が聞こえたからだった。はっとして山道を見つめる。もしかしたらクルイークが……そう思うと体が震える。くぼみの内側に体を隠すようにしてじっと見ていると、やがて足音の主が目の前の山道をやってきた。

「……!」

クレオは慌ててくぼみを飛び出した。文字通り、倒(こ)けつ転(まろ)びつ走っていく。彼女の目には、負傷した青年が映っていた。足を引きずり、歩くのもやっとといった様子で、長剣を支えにしながら少しずつ前に進んでいる。

「シキ!」

走り寄ると、シキは真っ青な顔に笑みを浮かべた。

「良かった、無事だったか」

「あ、わ、私は大丈夫、だけど、私なんかより、シキの、あ、足が……こんな……」

「最後の最後で不覚だった。俺もまだ甘いな。……それよりクレオ、エイル様とクリフはどこにいる」

それを聞いたクレオの唇がきつく結ばれ、はしばみ色の目に大粒の涙が浮かぶ。

「分かんないの……クルイークに追われて、エイルが足を踏み外して……」

「馬鹿な!」

「ご、ごめんなさい」

シキの声の大きさに驚き、クレオが首をすくめる。

「い、いや、すまん」

「私、怖くて……暗かったし、よく分からなかったけど、エイルを追って、クリフが降りていったの。私はもう一頭に吠えられて、夢中で走って……気づいたら、もう独りだった……」

先ほどまでの恐怖が蘇る。どんなに堪(こら)えようとしても、頬に涙が伝う。その様子を見て、シキが荒い息の下から言った。

「クレオは、悪くない……怖かったろう、もう、大丈夫だからな」

口にする言葉とは裏腹に、シキはその端整な顔を歪めている。右足の痛みは全身に広がり、彼の強靭な身体は疲労と苦痛に侵されていた。少しでも気を抜いたら痛みで気を失いそうだというのに、彼は山道を登ってきたのである。双子を心配する気持ちはもちろんだろうが、何よりもエイルに対する忠誠心ゆえだったのだろう。そのエイルを、我が身より大切に思う主君を守れなかった事に対する自責の念は、足の負傷とは比べ物にならぬほどにシキを傷つけていた。

その思いを推し量る事は、ごく容易だった。クレオはシキの傷と表情を見比べて、どうしようもない息苦しさを感じた。エイルは今頃どこにいるだろうか。クリフはどうしているのだろうか。二人が無事かどうかすら、定かではない。シキにとっても、クレオにとっても、掛け替えのない相手を失ってしまったのかも知れないのだ。全身に、寒気が走る。クレオは頭を振ってその考えを打ち消した。

「あの……歩ける?」

「ああ、何とかな。……すまんが、肩を貸してくれ」

「は、はい」

シキとクレオでは、ゆうに一サッソほども身長差がある。長身のシキを支えるのは楽な事ではなかった。肩の下にもぐりこむようにして、その背中に左腕を回す。ずっしりとかかる重みが、シキの苦痛を感じさせた。クレオは必死に歯を食いしばり、泣くまいと耐えた。

――今は、何も考えちゃ駄目。とにかくデュレーへ行かなくちゃ。早く、傷の手当てを……。

何も考えるなと言い聞かせたにも関わらず、彼女の頭の中には罪悪感が渦巻いていた。

何も、何も出来ない。シキや、アザムと呼ばれていた傭兵のように、獣と戦うことも出来ない。自分は彼らに助けてもらい、逃げ出したのだ。クリフと同じ速度で走ることも出来なかった。エイルを助ける余裕もなかった。隣を走っていたエイルが足を踏み外し、必死に手を伸ばすのを、息を呑んで見ているだけだった。何も見えない崖の下が怖くて、立ちすくんだ。自分が走り寄るより先に、クリフは崖を降りていった。クリフには、何の躊躇いもなかった……。

自分に助けを求めるエイルの大きな瞳と、呼び止める間もなく駆け降りていったクリフの横顔が、頭の中で交錯する。

――私、どうして……どうして、ここにいるんだろう。連れて行って欲しいなんて、何で言っちゃったんだろう。何も知らなかった。何も出来なかった。何も出来ない私なんか、いても足手まといになるだけなのに、何で……。

突然、左肩が急激に重くなった。支えていたはずの身体がずり落ちる。

「あ、ちょ、ちょっと……」

クレオが言っている間に、シキの身体は完全に崩れ落ちた。支えきれず、引きずられるようにして膝をつく。腕の下から這い出すようにして離れ、慌ててシキの顔を覗き込んだクレオは、思わず両手で口を覆った。

「シキ……!」

シキの両目は閉じられ、顔面は完全に蒼白で、冷や汗が滴り落ちている。息は、していないようだった。

「そんな、お、起きて……目を開けて! 嫌、そんな、嘘よ!」

クレオは叫び、シキの体を揺らした。何度揺らしても、何の反応も返ってこない。ふと目をやると、右足の付け根に結ばれていたはずの布が緩んでいる。シキの右足は、腿のあたりを中心にして半分以上が朱(あけ)に染まっていた。開いた傷から血が溢れ、地面までを濡らしている。

頭から足の先までが何かに縛られたように、びりびりと痺れている。クレオはまるで自分の血がそこに流れているかのように青ざめていた。こんなひどいことがあるだろうか。あれほど強く、雄々しく、何者にも屈しなかったシキは、今、自分の眼下に打ち伏している。その顔は染める前の麻布のように白く、もはや何の表情も見て取る事が出来なかった。クレオはあまりの衝撃に、顔を覆ったままうつむいた。

「……」

聞き取れないほどの小さな声が、クレオを呼んでいる。クレオは気づかない。シキの右手がごくゆっくりと動き、クレオの服の裾をひく。かすかな声が、途切れ途切れに何かを伝えようとしている。ようやくそれに気づき、クレオは慌ててシキの口元に耳を寄せた。彼の言葉をひとつも聞き漏らすまいと、唇を噛み締める。聞き取るのがやっと、というほどの小さな声で、シキはいくつかの単語を切れ切れに吐き出した。

「……すまない」

最後にそう言うと、シキは再び自らの意識を投げ出した。

クレオは、しばらくじっと動かなかった。しかしついに、その肩が大きく、ゆっくりと、上下に揺れる。深い息を吐き出した彼女はおもむろに立ち上がると、ぐいと目をこすった。もう一度大きく息を吸い込み、それをすべて吐く。胸の中にあった何かを吐き出したクレオの目には、強い光が宿っていた。

腕まくりをする。シキが身にまとっていた軽装鎧を、何とか外す。血を見ると首筋が冷たくなったが、頭を振って気を取り直した。手が血で汚れるのも構わず、右足の付け根に布を縛りなおす。そしてぐったりと力を失ったシキの下にもぐりこむと、クレオは、全身の力を込めて立ち上がった。

一歩、また一歩。クレオは足を踏み出す。ほんの数サッソ進んだところで、耐え切れずに膝をついた。スカートの下にはいていたタイツに血が滲んだが、それをものともせず、クレオは再び立ち上がった。少し歩いただけで、汗が頬を伝う。しかし震える膝を叱咤激励しながら、彼女はまた次の一歩を踏み出した。

息が切れる。腕にも足にも力が入らない。これ以上は無理だ。何度もそう思いながら、それでもクレオは諦めなかった。一歩、そしてまた、一歩。クレオはシキを背負ったまま、数アルカッソを進んだ。

それは、彼女が何度目かに倒れそうになった時だった。いや、確かに彼女は倒れた。力が抜けて、地に両手と両膝をついたのである。しかし、両肩にずしりとかかってくるはずの重みが、逆にふっと軽くなった。クレオは驚き、四つん這いのまま、顔を上げた。彼女の目に、彼女と同じ顔が映っている。

「クリフ……! エイル!」

二人が、シキの腕と肩を支えている。クリフは半分泣き出しそうな顔で笑っていた。クレオはよろよろと這い出し、シキの体を横たえているクリフに抱きついた。

「クリフ! クリフ! クリフ……!」

それ以外の何を言えばいいのか、分からなかった。目が、次いで体が熱くなる。喉と唇が震えて、クレオは上手く喋ることが出来ないまま、子供のように泣きじゃくった。クリフも泣いていた。汚れた顔をくしゃくしゃに歪めて、泣いているのか笑っているのか分からないまま、二人は抱きあっていた。互いの半身を失くしたかも知れないという恐怖から開放され、座り込んだまま、喜びに打ち震えている。

「シキ」

双子の兄妹は小さな声で我に返り、声の主を見つめた。

シキが横たわり、エイルがそれへひざまずいている。それは、本来ならば有り得ない状況だった。エイルは今まで、シキが寝ているところなど見た事がなかった。旅をしている間中、シキはエイルより後に就寝し、エイルが目覚める時には既に目を覚ましていたからだ。しかし今、シキはぐったりと目を閉じたまま、固い地面に寝かされている。エイルは震える声で、再度呼びかけた。

「シキ、目を開けろ……シキ」

クリフがその肩に手を置き、隣へ座る。クレオは、シキを挟んだ正面にしゃがみこんだ。

「ちょっと前……気を失ってしまったの。その時、とにかく村へ行って、人を呼んで、何とか村へ運んでくれって言われたわ。自分の体力が回復したら絶対に二人を見つけるから、諦めちゃ駄目だって。それから、エイル様に謝らなければって言って……」

「なら! それなら、今すぐに起きて謝れ!」

透き通った青い瞳を潤ませて、少年は叫んだ。クレオにではなく、シキに向かって。

「早く目を開けるんだ、私に謝る事があるのだろう! それなら……いつまでも寝ているんじゃない!」

「エイル」

「私の命令だぞ、目を開けろ! 開けろったら!」

シキの身体に乗りかかるようにして、エイルは何度も叫んだ。溢れた涙を拭う事もせず、むしろそんな事には気づいていないかのように訴え続ける。息をしてはいるものの、横たわるシキの表情は、安らかとはいい難い。出血は何とか止まっているが、傷は深く、治るまでには恐らく長い時がかかると思われた。クリフとクレオは何も言えずに黙り込んでいたが、ふとクレオがエイルを見つめる。エイルはしゃくりあげながら、激しく目をしばたいた。

「エイル、ねえ、こういう時のための魔法はないの? 意識を取り戻すとか、傷を治すとか、そういう魔法があれば、シキは助かるわ」

「……そんな、便利なものじゃない」

涙で汚れた顔をこすりながら、エイルは説明した。

「魔法といっても何でも出来るわけではない。限度がある。傷を治すなんて、自然の力に反している。魔法は元々、自然の力に術者の力を加えて、より大きな力を出すものだから、自然に反することは出来ないのだ。それに、術法を唱える者にはとてつもない負荷がかかる」

「負荷って?」

クリフが首を傾げる。

「つまり……ものすごく大変だって事だ。火をつけるのも、水を呼ぶのも、人間の能力を超えていることだろう。術の力を無理やり引き出しているんだ。やり方を知ってるからと言って、誰にでも出来る事じゃない」

「そうなんだ……」

クレオが小さく呟く。エイルは目をそらして続けた。

「それに、意識を取り戻させるのは難しい。本人が願い、力を加える事ができないから」

「じゃあどうすれば……」

クリフが言いかけると、エイルが小さく息を呑んだ。

「エイル? 何か思いついたの?」

「うん……いや、ちょっと待て。……よし、そうだ、いや……うん、だとすれば、もしかして……出来るかも知れない」

両眼を中空に据えたまま、エイルは必死に考えを巡らせた。そして、何かを決意して顔を双子に向ける。

「やってみないと分からない。でも、出来るような気がするんだ」

「僕らに手伝える事はある?」

「私が唱えている間、シキを呼んで欲しい。眠っている意識に声が届けば、目を覚ましやすいから。それから、もし上手くいってシキが目を覚ましても、痛みは消えない。意識を呼び戻せるかも知れないというだけだから。怪我を治す魔法はないんだ。だから、歩くのを手伝ってやらないといけない。クリフとクレオに、手伝って欲しいんだ、頼む」

必死に言ってから、エイルは気づいた。人に何か頼みごとをするのは、これが、初めてだということに。それは命令でも、指示でもなかった。彼は心から、二人に懇願していたのである。まさか自分がそんなことをするなんて、と戸惑っているエイルには全く気づかず、クリフとクレオは間髪入れず頷いた。

「分かった!」

二人の力強く、迷いのない様子にエイルは震え、目に涙が浮かんだ。しかしそれを抑え、平静を装う。

「シキの眠っている意識に呼びかけながら、衝撃を与える術法を同時にやろうと思う。やった事がないし、可能なのかも分からないが……出来るような気がするんだ」

シキの額にかかった黒髪を横へどけ、右手の中指をそっと置く。左手も、そこへ添えた。両手をやりにくそうに組み合わせ、複雑に形作る。何度も深呼吸をして、小さな声で呟く。エイルは、ゆったりとした長い詠唱と、歯切れのよいいくつかの単語を交互に口にしていった。一生懸命なエイルと、呼吸もほとんどしていないようなシキを見比べながら、双子はシキに呼びかけ続ける。

「お願い、目を覚まして。シキ、目を開けて」

「戻ってきて下さい、お願いだから……」

何も起こらずに時間が経っていくのは、例えようもなく怖かった。しかし三人の誰もそれを口にはせず、ただ自分が出来る事だけを根気強く、延々と繰り返す。クリフとクレオは、シキを呼んだ。何度も、何度も。エイルは、何かを唱え続けている。集中力を途切らせぬよう、必死で。

三人とも、願いはたった一つ。

そして、東の空が薄ぼんやりと白み始めていった。

デュレーという町には、宿屋が乱立していた。

さほど大きくもない宿場町だが、住民はその多くが宿を経営するか、そこに住み込んで働くかのどちらかだった。どの街路にも宿屋が一軒はあり、町の中央を走る大通りに至っては、宿屋がひしめき合っていると言っても過言ではない。

シンジゴ山脈は、なだらかではあるが東西に長い。南北を行き来するためにどうしても越えなければならない、最大の難所である。デュレーはラマカサと同じく、レノア領メンフォン地方ということになっているが、山脈のほぼ中ほどに位置しているので、デュレーがレノアとルセールの実質的な国境となっている。細く険しいとはいえ、山道はデュレーを通る一本しかなく、二国を行き来する旅人はほぼ必ずこの町を通る。山を一日で越えるのは無理。そうなれば、デュレーに最低でも一泊はしなければならない。それが、デュレーに宿屋が乱立する理由だった。

自分の住む家の一部を貸すような小さな宿、隊商などの大人数の客を専門に引き受ける大規模な宿、いくつもの個室を備えた上等な宿など、デュレーには様々な形態の宿がある。訪れる人は数多くの宿の中から自分たちの人数や財布の中身に見合う宿を選ぶ。多くの宿には食堂や酒場が併設されており、そこで食事や情報にありつける。生き残りをかけた生存競争は、旅人たちにとってより良い宿屋を誕生させた。

そんなデュレーに、今日も爽やかな朝が訪れようとしている。

なだらかな峰の向こうから、太陽神ハーディスが今日最初の光を投げかける。早起きの鳥たちが、一日の始まりを告げている。あたりは少しずつ、だが確実に明るくなってきた。真っ赤な朝焼けが東から広がり、夜空を飾った星々は西の空の彼方へと追われていく。そして空は、透明感のある青へと変わっていった。ふもとのラマカサに比べて気温の低いデュレーではあるが、鳥肌が立つような夜の寒さもようやく和らぎ、吐き出す息ももう白くはない。

デュレーの門の近くには特に多くの宿が集まっているが、その内の一軒の扉が開き、下働きの女が姿を見せた。欠伸をかみ殺しながら、木桶を手にして通りを横切っていく。水を汲みに行くのだろう。朝まだ早い通りには人影も少ない。町の中心部は朝市の支度で慌しいだろうが、このあたりの道には誰も歩いていなかった。

女の目に、何やら影が映る。入り口の方から、ゆっくりと歩いてくる大きな人影は、よく見ると何人かがかたまって歩いているようだ。ラマカサから来る旅人は夕方到着するのが通例である。明け方に誰かが到着するなんて、見た事がない。女は眉をひそめた。

一行は全員がぼろぼろの服を身にまとっている。かたまって歩いているのは、みなが中央の男を支えているからのようだ。彼らはふらついた足取りで、今にも倒れそうだった。

――まさか夜の間、山を登ってきたんじゃないだろうね。

そうだとしたら、気が狂っているとしか思えない。どう考えてもクルイークに襲われる。無事に山を登ってきたとは、なんという幸運だろうか。女は感嘆した。

声をかけようか。彼らはどう見ても疲れ果てている。いや、やめようか。見てくれからして、金に縁があるとは思えない。彼女を雇っている宿の主人も、貧乏人を喜びはしないだろう。しかし、さらによく見れば、中央の男は怪我を負っているようだ。

――面倒な事に巻き込まれんのは嫌だけどねえ……。

怪我人を見捨てるのも良心が咎める。女は四人に近づいていった。

「あんたたち、まさか山を登ってきたのかい」

「……あ、はい」

はしばみ色の髪と瞳の少年が答えた。

「この人、怪我してんだね。無理にとは言わないけど、うちの宿で休むかい? ちっと休むだけなら料金も……」

なるべく深く関わらないようにしようと思いながら、そう言ってやる。と、中央でうつむいていた長身の男がゆっくりと顔を上げた。蒼白で生気がないが、端整な顔立ち。切れ長の目、すっと通った鼻筋、額にかかる黒髪が彼をますます魅力的に見せている。女は思わず顔を赤らめ、崩れていた髪を手櫛で直した。

「い、いや何だったらいつまでいたっていいよ。安くしておくからさ」

「ありがとうございます」

もう一人の少女が嬉しそうに言った。少年と同じくはしばみ色の髪と瞳。女は今まで気づきもしなかったのだが、少年と少女はあまりにも似すぎている。女は頭の中で、「ちょっと気持ち悪いねぇ」と呟いた。しかしそれを押し隠して、一軒の宿を指し示す。

「うちの宿はすぐそこ、ほらあそこだよ。看板に『メイソンの宿』って書いてある。あたしは水を汲まないといけないから、先にお行きよ」

「世話になるぞ」

まだ声変わりしていないという感じの声がし、くしゃくしゃに乱れた水色の髪が、三人の後ろから顔を出した。

――偉そうな子。

女はそう思ったが、これも口に出すことはないと思い、木桶を持ち直した。四人を再度宿の方へ促すと、井戸のある広場へ向かって歩き去った。

看板の下、古い木の扉を押し開けると、中は食堂になっているようだった。清潔で広々とした食堂で、席についているのはたった一人、色黒の青年だけだった。人々が起き出し、食事を取るにはまだ早い時間である。

部屋の片隅には勘定台が設けられ、どうやら店の主人である初老の男が座っている。四人が入ってきた物音に顔を上げ、鷹揚と立ち上がった。

「おやおや、こんな時間にお着きになる人がいるとは……」

言いかけて、四人の様子に気づいたのだろう、あたふたと勘定台から出てくる。メイソンは、人の良さそうな男だった。中肉中背で、柔和な顔にはしわが刻まれている。デュレーの住民はそのほとんどがルセールとレノアの混血であり、メイソンも同様だった。縮れた黒髪はルセール南部の特徴であり、色素の薄い茶の瞳はレノア人に多く見られる特徴である。

「おお、これはひどい。ひとまず寝かせてあげなくてはならないようですな。……おーい、誰かいないか! この人を部屋へお運びするんだ」

メイソンの呼びかけに応えるように、二階へ続く階段から、下男が一人降りてきた。力強そうな大男である。

「こんな朝早くから、何ですかい? ……へぇ客ですか、珍しい事もあるもんだ」

「アルダ、この方を二階へお運びしろ」

メイソンに命じられ、アルダと呼ばれた下男は腕まくりをした。屈強な腕がむき出しになる。しかしアルダ一人ではシキを運ぶのは容易ではなかった。クリフが疲れた体に鞭打って立ち上がる。すると、後ろからその肩を叩いた者がいた。

「俺が手伝おう」

簡潔に述べたその声の主は、食堂で食事をしていた青年だった。ぱさついた、濃い緑にも見える黒髪を短く刈っている。肌は元からの黒さに加えて、日焼けのせいで真っ黒だ。にっと笑うと、顔の中で白い歯が目立つ。青年はセサルと名乗り、下男のアルダを手伝ってシキを二階へと運んだ。シキの意識は、かろうじて保たれているという程度で、一人ではとても歩けないようだ。彼らは二階へ上がってすぐの廊下を進み、最奥の部屋に入った。そこは狭いながらも四つの寝台が置かれた部屋で、どの寝台にも清潔な布団が用意してある。アルダとセサルはその内の一つにシキを寝かせた。

「剣はここでいいよね」

「ああ、近くに置いてくれ」

シキに指示され、クリフが抱えていた長剣を寝台の脇に置いた時、彼の腹が盛大に鳴った。

「下の食堂で食事が出来るよ」

セサルが笑いながら言う。下男のアルダがにやにや笑いを浮かべて付け加えた。

「三人だったら、銅貨九枚だ。今ここで払うかい?」

「食事をした方がいい。俺のことは気にするな」

シキの言葉に双子は顔を見合わせ、言う通りにするのがいいと結論を出した。クリフとクレオの視線がエイルに注がれる。二人がシキを支えるので、仕方なくエイルが荷物を運んでいたのだったが、その中に硬貨を入れた布袋があったのだった。しかしエイルは視線の意味に気づかず、きょとんとしている。

「エイル、そこの袋よ、貸して」

「これか?」

「そうだよ、食事代を払わなくちゃ」

エイルは曖昧に頷き、袋を差し出した。クリフが重たい袋を受け取り、口を開ける。中はシキの報奨金の金貨ばかりである。幾度もかき回し、ようよう、一枚の銀貨を見つけてアルダに渡した。それを受け取り、アルダは「釣りは後でな」と言いつつ部屋を出て行く。

「じゃ、先に降りてるよ」

そう言うと、アルダに続いてセサルも出て行った。見送りながらクレオが言う。

「あのねエイル、食事する度にお金はかかるのよ。エイルは食べるばっかりだから気づかなかったかも知れないけど」

「私を馬鹿にするな。そんな事くらい、知っている」

「あらそう? ご存じないのかと思ってましたわ」

「嫌味な奴だな、お前は」

ぶつくさ言うエイルに、クレオはそれ以上構わなかった。こんなエイルにはもう慣れている。

三人は着替えを済ませると、シキに断ってから階下へ降りていった。

「お疲れのご様子ですな、色々と事情もおありでしょうが、デュレーでゆっくり休んでください」

食堂へ行くと、メイソンが柔和な笑顔を見せた。三人の顔には対照に、昨夜の疲労が色濃く浮かんでいる。

「どうぞ好きなだけ泊まっていって下さいよ。旅の疲れが癒え、お連れさんの怪我が治るまで」

宿の主人らしい申し出に、クリフは笑って頷いた。

恐ろしい夜は明け、ようやくデュレーに辿り着いたのだ。命の危険に晒されることはもうない。シキの怪我が懸念ではあったが、彼らはともかくも安心と安全を約束されたのである。と、クリフの腹が再び大きな音を立てた。

「これはこれは。まずは腹ごしらえからですな。早速ご用意しましょう。腕によりをかけますからね、きっと疲れなどすぐに飛んでしまいますよ」

メイソンは笑いながら彼らに椅子を勧め、自身は厨房へと向かった。どうやら彼が料理も担当しているようだ。席に着いたクリフが、照れくさそうに鼻の頭をかいている。

「とにかく良かったわ。一時はどうなるかと思ったもの」

「うん、本当に良かったよ。エイルのお手柄だね」

「ま、まあな」

真っ直ぐに誉められ、エイルは思わずどもっている。クリフは疲れた顔に笑みを浮かべた。

「ね、メイソンさんっていい人ね。ここがどんな宿かまだ分からないけど、見たとこはまあまあだし……お値段があまり高くなければ、シキが治るまでここにいない?」

「ん、俺もそう思ってた。シキはそんなすぐに治らないだろうし……。しばらくここに泊まろうか」

「シキに相談してから決めればいいだろう」

「そりゃそうね」

「あぁ、お腹空いた!」

食堂には人が増えてきていた。数組の旅行者が食事を取るために降りてきている。眠そうな目をこすっているのは踊り子だろうか。旅装の神官、それに武器を帯びた傭兵など、格好も様々だ。

メイソンの宿は二階建てになっていて、上の階が客室になっていた。降りてきたのは数組の客だったが、そのどれもが四人前後である。察するところ、客室は数人用の個室ばかりなのだろう。こういった宿は高級で、デュレーにも数少ない形態だった。シキの怪我の事を考えると、個室の方が何かと便利だろう、とクレオは思い、やはりこの宿でシキの怪我が治るのを待ちたい、と密かに思った。

「あ。さっきはどうもありがとうございました」

クリフの声でふと横を見れば、近くの席に先程の青年が座っていた。クリフが頭を下げている。どうやら一人のようだ。それでは食事もつまらなかろう、と席に誘う。青年はその申し出を想像していなかったのか、少し驚いたような表情を見せた。が、「さしあたって断る理由もなさそうだね」と言ってクリフたちの席に着く。

「俺はセサル=イスク。砂漠の部族出身でね、成人の儀式を受けるために旅をしてるんだ」

改めて名乗った若者は、二十歳を少々過ぎたくらいに見えた。日焼けした肌に、白い民族衣装がよく似合う。快活な口調が気持ち良かった。小動物のような茶褐色の瞳は、いつでも笑っているようで愛嬌がある。

「俺たちは、コーウェンって町に向かってるんだ。俺はクリフ。俺とクレオが兄妹で、エイルは、知り合いっていうか……」

クリフは上手く説明できずに言葉尻を濁したが、セサルはあまり気にしていないようだ。

「コーウェンまでか。ずいぶん遠い道のりだね。そうそう、一つ聞いてもいいかな。さっき着いたばかりなら、夜の間に山を越えてきたって事だろ。クルイークに襲われたんじゃないか?」

宿に着いたばかりの時、彼らの服はあちこちが破れ、泥や土埃でひどく汚れていた。服は清潔なものに替えたが、顔などはまだ汚れたままである。興味津々という風ではなく、かと言って社交辞令という風でもなく、セサルはごく自然な疑問として聞いたようだった。

「ええ、まあ……何とか助かったけどね」

セサルの涼しげな視線に、クレオは何だか急に恥ずかしくなってうつむいた。クリフやエイルなら気にならないのにな、と不思議に思う。

「セサルはここに、長いこといるの?」

クリフの問い返しに、セサルは軽く首を振ってみせた。

「いや一昨日からだ。前に泊まっていた宿が良くなかったんで、移ったんだ。デュレーには星の数ほど宿屋があるけど、良くない宿屋もやっぱりあってね。宿屋ギルドに加入してない宿屋に当たっちゃったんだ」

参ったよ、と小さく肩をすくめて見せる。

「宿はよく選んだ方がいいよ。実は昨日聞いたんだけど、ここもあんまりいい噂がないらしい」

「そうなの?」

「値段も相場よりちょっと高いみたいだしね。でもギルドには加盟してるし、部屋が全部個室だから、今のところ俺は気に入ってるけど」

双子は顔を見合わせた。言葉は交わさずとも、お互いの言いたい事は伝わっているようだ。その様子をじっと見ていたセサルが、不審そうな顔で尋ねる。

「なあ、君らは兄妹って言ったよな……?」

「え、ああ、よく似てるって言われるの。クリフ兄さんとは年も一つしか違わないし、そのせいだと思うわ」

慌てているクリフを横目で睨み、クレオはそつなく取り繕ってみせた。内心、クリフと同じように慌ててはいたのだが、それが表情に出ていないことを祈る。だがセサルは、あまり細かいことにこだわらない性格のようだった。そうなんだ、と軽く頷く。

エイルは、もう口を開くのも億劫といった様子で黙り込んでいた。シキを支えて歩いた双子も疲れただろうが、全員の荷物を持って歩いたエイルは疲労困憊(こんぱい)だった。荷物はほとんど残っていなかったとはいえ、シキの鎧や長剣なども含めれば相当の重さだったのである。銀のさじより重いものなど持った事もないような少年王子には、かなり厳しい試練だったと言わねばなるまい。

下男のアルダが、朝食を乗せた皿を三枚持ってやって来た。待ちに待っていた食事である、クリフは早速パンにかじりつく。その様子を見て、セサルが笑っている。クレオは顔を赤らめてパンを小さく一口かじり、話題を変えた。

「あの、セサルは一人で旅をしているの? 成人の儀式って言ってたけど、どんな事を……?」

「君らの村には成人の儀式ってあるのかな? 俺の村の儀式は、一人でやるんだ。部落は砂漠にあるんだけど、一人で砂漠を越え、山を超えなくちゃいけないんだよ。儀式の期間は、自分で決める。部落へ帰って、自分がしてきた事を長老たちに話すんだけど、それで大人になったと認められればおしまい。まだ駄目だと言われたら、もう一度旅に出なくちゃいけないんだ」

「大変そうだね」

クリフはうんうんと頷いているが、すっかり食事に夢中になっているようで、打っている相槌も適当だ。

「もう、クリフったら、もっとゆっくり食べなさいよ」

「だってお腹空いてたんだもん、仕方ないじゃないか」

大きなパンの塊を無理に飲み下しながらクリフが言う。クレオとエイルは呆れ顔だが、気にもしていない。

しかしエイルは食事をしていなかった。目の前に置かれた皿からスープを一口、それもほんの少し口に含んだだけである。さじを下ろしたまま、じっと動かないエイルに、クリフが首を傾げる。

「何だよ、エイルは食べないの?」

「食欲もあまりないし……それに、これは私の口に合わない」

「また始まった。エイルったらいっつもそんなこと言って。後でお腹空いたって言っても、いつもみたいにシキが用意してくれるなんて思ってないでしょうね?」

「うるさいな、分かっているったら。だが、これは食べられない」

「そんなにまずいってわけでもないだろ? 腹も減ってるんだし、美味しいと思うはずだけどなあ」

セサルも双子に合わせて食事を勧める。しかしエイルはそれ以上口をつけようとはしなかった。疲れすぎている時はあまり食欲が出ない。それも理由の一つかも知れなかった。クリフは自分の皿に乗った食事を片付けながら、エイルの皿をじっと見つめている。

「どうしても食べないつもり?」

「スープもパンも変な匂いがするし、さじが銅だから変な味がする」

それは、エイルが常々言っている言葉だった。彼の食事には、常に金や銀の食器が用意されていた。食材の味を損ねないために必要なのだとエイルは言っていたが、まさか現状でそんなものが用意出来るはずもない。エイルは食事をする度に顔をしかめながら、同じようなことを繰り返して説明するのである。

――いつものことだ。

いつまでも相手にしてはいられない、と双子は肩をすくめた。

「食べたくないなら食べなきゃいいわよ。お金が勿体無いけどね」

「大丈夫、エイルが食べないなら俺が食べるから」

クリフはそう言うと、早速エイルの食器からパンやハムなどを取り上げた。エイルはそっぽを向いている。結局エイルはそれ以上、何も口にしなかった。後でエイルが空腹を訴える事は予想がついたが、ともあれ彼の朝食となるべき食事はクリフの腹に収まったのだった。

「それじゃ、俺はこれで」

食事を終えたセサルは、あっさりと言って席を立った。特にこれ以上クリフたちと行動を共にするつもりもないらしい。もうこれで会えなくなっても不思議ではない、とでもいうような口調である。

「え? もうデュレーを出るって事?」

驚いたようなクレオの質問に、これまた意外そうな顔のセサルである。

「いや、まだここに何泊かするつもりだけど」

セサルは物事にあまり執着しない。元々、人と交わる事が得意なわけでもなかった。それが砂漠の民の性質なのか、セサル自身の性格なのかは判然としなかったが、ともあれ彼はクレオたちが淋しがっているとは気づかなかったようである。

「まだデュレーにいるなら、明日も会うよね」

「また明日ね」

セサルは少し不思議そうな表情を見せたが、双子の笑顔にようやく意味を見出したのか、すぐに笑顔になった。

「そうか、そうだよな。じゃあ、また明日」

セサルが軽く手を振って出て行くのを、双子は扉が閉まるまで見送った。エイルは一瞥をくれただけだったが、セサルと目が合うと、軽く手を挙げた。

クリフとクレオは使った食器を片付け始めている。が、エイルは食器を片付けようとしない。当然といった様子でクリフたちが片付けるのを眺めているだけだった。それに気づいたクレオがエイルを一喝、あわや大喧嘩に……というところだったが、クリフが手馴れた様子でたしなめる。こんな事も、もはや日常茶飯事だった。さして大事になるでもなく、クレオは小言を言いながら食器を片付け、クリフはエイルをなだめながらそれを手伝い、エイルは腕を組んでそっぽを向いた。

食器を下男のアルダに手渡すと、三人は勘定台でメイソンを呼んだ。宿の亭主が厨房から顔を出す。呼びかけに応え、彼は前掛けで手を拭きながら出てきた。

「はいはい、食事はいかがでした?」

「ごちそうさまでした。美味しかったです。腹いっぱい!」

「そりゃあ何よりですね」

「それであの、シキがいる部屋に、私たちも泊まれますか?」

「ええ、ええ、もちろんですとも。そう思って四人部屋にお運びしたんですからね。先ほど薬食をお届けしましたよ。何とか口にしていらしたようです。今頃はお休みになってると思いますよ」

「そうですか、良かった」

宿代は出立時にまとめて払ってくれればいい、とメイソンは太っ腹である。三人はその申し入れをありがたく受け入れ、とにかく体を休めようと階段へ向かった。

四人を見送るとメイソンは食堂を見渡したが、客席は大半が空いていて、多くの客が食事を終えたようだった。朝の混雑が終わると、しばらく食堂は暇になる。

――それにしても客が少ない。

頬杖をついて嘆息する。食事代として預かった硬貨を数え、さらに大きく息を吐き出した。メイソンの宿はここのところ、客の入りが良くないのである。彼がその原因について頭を悩ませていると、二人の男が木の扉を押し開けて入って来た。それに目をやって、彼らを愛想よく出迎える。

一人はメイソンがよく知る男だった。すっかり禿げ上がった頭をしきりに撫でている。旧知の仲ではあるが、メイソンはこの男が好きなわけではなかった。もう一人はそれより少し若く、見覚えがなかった。ごく一般的な、目立たない服を着ているが、あたりに配っている視線には隙がない。やせぎすで背が高く、神経質そうな顔つきだ。男はメイソンやこの宿自体にあまり興味はないようである。メイソンを紹介されても無表情のまま、気のない風で握手をし、きちんと揃えられた紫紺色の髪を櫛で整え直した。メイソンの方は、男を紹介されると一瞬戸惑いの表情を浮かべたが、ともあれ詳しい話を聞くため、宿の奥へと二人を促した。

「よくあんなスープが飲めるな」

「エイルったら、まだ言ってる。もういいじゃない」

「お腹いっぱいになったら眠くなっちゃったよ」

突き当たりの部屋の扉をクリフが開けようとしたが、クレオがそれを止める。

「ちょっとクリフったら。シキが寝てるのよ、そっと開けなきゃ」

「あ、そっか」

「シキのことを忘れるとは……」

「ごめん、ごめん」

改めて取っ手に手をかけ、そっと押し開ける。それほど広くもない部屋。木の窓は閉められ、薄暗い部屋の奥でシキが静かな寝息を立てている。扉を開けた音にも、三人の気配にも起き上がる様子がない。腹が満たされたからというよりは、疲労のために昏々と眠っているようだった。

「しー……」

三人はそっと部屋に入り、寝台と寝台の狭い隙間に腰を下ろした。硬い木の床ではあるが、座っていられることに安堵感を覚える。ようやく人心地がついた、といったところだ。そして彼らは再び、囁くように会話を交わし始めた。

「あーあ、疲れたね」

「そりゃそうよ、一番中歩き続けたんだもん。本当に、昨夜はとんでもない経験をしたって感じ」

「私たちが助けに行った時、クレオは大泣きだったな、子供のようだったぞ」

「な、何よ、エイルだって泣いてたじゃない」

「私がいつ泣いたというのだ。馬鹿なことを言うな」

「もう忘れたの? エイルったら『シキ〜起きて〜』って泣いてたくせに!」

「そんなこと言ってな……」

「しーっ!」

クリフが指を唇に当てる。声を荒げかけたエイルは、慌てて黙り込んだ。三人は思わずシキを振り返ったが、動く気配はない。寝息は安らかだったが、時折痛むのか、うめき声を上げる。冗談や軽口交じりの明るい雰囲気は打ち消され、意気消沈といった沈黙がクリフたちを包んだ。

「……どのくらいで治ると思う?」

「出血が激しかったから、恐らくは熱が出る。数日、長ければ半月……熱が下がれば大丈夫だろう」

「どうして分かるのよ」

「若い騎士が大怪我をした時、ジルクに聞いた。切り傷などで大怪我を負うと、高熱が出るらしい」

「そうなの……」

「きっと大丈夫だよ。シキは強いもん。な、エイル」

「うん」

――何よ、クリフには随分素直じゃない。

クリフの言葉に頷くエイルを見ると、口にこそ出さなかったが、クレオは何だか面白くなかった。崖から落ちた後、二人に何があったのか聞く暇もなかったが、あれからクリフとエイルは妙に仲がいい気がする。クレオは、どんな事があったらあんな生意気なエイルが素直に言うことを聞くようになるのだろうと考えを巡らせた。しかしすぐに、そんなこと有り得ないか、と首を振った。

「ああ、お腹いっぱいだあ」

クリフは何度も出る欠伸をかみ殺している。

「そうだね、私も眠い……。やっぱり疲れてるんだわ、昼前だけど、もう寝ちゃおうか」

荷物の確認、シキの怪我の治療、この先の相談、情報収集……やらねばならない事は山のようにあるだろう。しかし今は何より、体力の回復が重要だった。三人は頷きあうと、早速それぞれの布団にもぐりこむ。

薄暗い部屋の、少しひんやりとした空気が心地いい。部屋の外は明るいハーディスの光に満ち溢れているのだろうが、窓をしっかりと閉めているので、部屋には幾筋かの光が差し込んでいるだけだった。窓越しに通りを行き来する人々のざわめきが聞こえているが、それすらも彼らにとっては子守唄のようだ。夢にまで見た布団にくるまると、今までの疲れが一時に攻め寄せてくる。そうして三人は、百を数える間もなく眠りに落ちていったのである。

部屋の中は、しんと静まり返っている。エイルは自分がいつ目を覚ましたのか分からなかったが、気分よくまどろんでいた。窓の外の音に耳を済ませたが、雑踏や人声は聞こえない。

――もう日は暮れたのか? 随分と寝たんだな。しかし、そろそろ……。

朝食をろくに食べなかったせいで、エイルは空腹を覚えていた。しかしここで双子を起こすわけにはいくまい。腹が減ったなどと言おうものなら、クレオが勝ち誇った顔で言うに違いない。「それ見たことか、だから食事をしろと言ったのに、これだからエイルは……」と。そんなことは我慢ならない、とエイルは思った。布団を思い切り引き上げ、腹が鳴らないよう祈る。三人が眠りについた時刻からもう随分と時間が経っているのだ、遅かれ早かれ二人も目を覚まし、食事をしようと言うだろう。そうしたらこの宿ではなく、別のところで食事をしろと言おう。

――それにしても……この先どうなるのだろうか。

静かな部屋で布団にくるまりながら、エイルは天井を見上げた。自室で寝ていた時に見えた景色を思い出す。何だかもう遠い過去のようだ。そしてそれは本当に、遠い過去の事なのだ。

柔らかな鳥の羽毛をいっぱいに詰めて、絹でくるんだ軽く柔らかい布団。三つ並べてある、頭を置くと埋もれてしまうような絹の枕。見上げれば薄いヴェールを垂れ下げた天蓋の素晴らしい模様。大きな、素晴らしい寝台。昔は当たり前だと思っていたそれが、今では夢のような布団だと思える。今、エイルが寝ているのは、固い木の寝台。それに薄い布団。枕はないので上着を丸めて頭を乗せている。これでも、野宿よりはまだましと言える。この差はどうだろう。だが、これが現実だ。

――コーウェンとやらいう町まであとどのくらいか知れないが、きっとまだ遠いのだろうなあ。

クリフのおかげで命拾いをしたとはいえ、あんな恐ろしい目に遭うのは二度とごめんだ、と、エイルは思った。城にいた時は命の危険など、それについて考えた事すらなかったというのに、一体これはどういうことだろう。何がどうしてこんなことになってしまったのだろうか。

――そうか……コジュマールだ。

コジュマールはレノア国第十三代の王の弟、つまりエイルの父親の弟である。レノア王エイクスは長男であり、弟と妹が三人ずついる。コジュマールは、下から二人目の弟であった。武官長でもあった彼がある日唐突に反乱を起こし、圧倒的な軍事力をもって城へ攻め入った。そしてエイクス、その妻にしてエイルの母親であるマードリッド、エイルの異母兄弟であるシエルまでを葬り去ったと、そう、シキは言った。エイルにとって、シキが言うことは自分の目で見た事実と同じか、それ以上の重みを持っている。エイルには、もう二度と両親や兄に会えないという事実を、受け入れる以外に手段がなかった。容易(たやす)く納得出来たわけではない。ただ突然変わった環境への対応に迫られたので、悩む暇もなかっただけである。実際、こうして色々な事を思い起こすのは、久し振りだった。

――ジルクは今頃どうしているだろうか。

あれから三百年余が経っているとは、いまだに信じがたい。三百年前と今の世界は色々な部分で違っているのだろうが、ろくに城から出た事がない王子にとっては、それが分からなかった。現在と過去の差を感じるより前に、貴族と庶民の生活の差を感じ、驚愕した。このまま何とか順調に南へ旅し、コーウェン近郊で大魔術師を見つけることが出来、過去の世界に帰ることが出来たとして。あの時のレノアに帰れたとして、そこに何が待っているかといえば、死体の山と、崩れた城と、勝ち誇るかつての王弟コジュマールの軍なのではないだろうか。もしそうならば、シキとエイルに何が出来るだろうか。ほんの一瞬、いっそこのままこの世界で暮らしたい、という考えがよぎる。しかしエイルはその考えをすぐに打ち消した。

――やはり、私が住む世界はここではない。レノアが反逆者に乗っ取られているならば、なんとしてでも正統な王位を取り戻す。それが王家に生まれた私の宿命だ。コジュマール叔父、いや反逆者コジュマール、王位はあなたのものではない。父王陛下の、そうでなければシエル兄殿下の……もしそうでなければ、私のものだ。

エイルは両手の指を合わせて握りしめた。どうすればいいかは分からない。自分は今、何も持っていない。しかし彼は確かに「王の息子」だった。エイルは唇を固く噛み締め、なんとしても過去のレノアへ帰ることを、そしてレノア国に正統な王位を取り戻すことを胸に誓った。

しかしどれだけ高潔な誓いとて、空腹に勝つのは難しい。エイルは思わず握り締めていた両手を自分の腹に当てた。ぐっと押さえたが、腹はあえなく切ない音を立てた。

――あれからかなり時間が過ぎたと思うが……クリフたちはまだ起きないのか。

恐らく、もう真夜中といっていい時刻だろう。時を告げる鐘の音も、日の入りを告げたのを最後に鳴っていないようだ。次に鳴るのは日の出の時刻だが、それはまだ先だろう。エイルは何度目かの寝返りを打った。

ふと、何かが軋(きし)む音がした。古い木造の建物は、家鳴りする事がある。時折、建物のどこかが、軋むような音を立てるのだ。しかし天井を睨みつけて空腹に耐えているエイルの耳に届いたその音は、家鳴りとは違う音だった。確かに木がしなって鳴る音ではあったが、それはゆっくりでありながら規則的で、しかも徐々に近づいてきている。

――誰かが廊下を歩いている……? 

エイルは不安に駆られた。こんな時刻に誰が宿の廊下を歩くというのだろうか。自分たちはさておき、デュレーの町に限って、夜間に到着する客などいるはずもない。

――まさか、盗賊か。

宿の客を狙う賊はどの街にもいる。大抵はちんけなこそどろで、寝ている客の荷物をこっそりと漁って金や武具などを盗んでいく奴らである。だが、中には極悪非道な強盗もいる。客が起きて騒ぐ前に殺してしまえ、というような物騒な者も、稀ではあるが確かにいるのだった。そういった盗賊に出会う可能性は少ない。もし会うとすれば、かなり運が悪いと言えるだろう。エイルは、だからまさかそんなことはあるまい、と思った。しかし、恐怖を拭い去ることは出来なかった。足音は止まることなく、確実にこの部屋へと近づいている。

もし起きているのがシキであれば、剣を手繰(たぐ)り寄せ、息を殺して待つだろう。クリフやクレオだったらどうするだろうか。今、自分がすべき事は何だろうか。エイルは必死で考えた。もちろん、足音の主がこの部屋を目標にしているとは限らない。しかし、もしそうだったら? 

エイルは素早く、しかしなるべく音を立てないように寝台から降りると、クリフに走り寄った。シキは怪我をしているし、今一番頼りになるのはクリフだ、という判断である。とにかく、自分一人でいたくはなかった。しかしいくら揺すってもクリフは安らかな寝息を立てているばかり。耳元に口を寄せ、小声で呼んでみたが反応がない。足音はどんどん近づいてくる。エイルはそこを離れクレオの寝台に近づいたが、結果は同じだった。緊張が高まり、エイルは唾を飲み込む。その時、足音が止まった。恐らくは、エイルたちの部屋の前で。

エイルは慌てて自分の布団にもぐりこんだ。寝た振り以外、何も思いつかない。布団を鼻までひきあげ、唾を飲み込んだ。手の平や背中に、嫌な汗がじわりと浮く。

扉が音もなく開いた。やはりこの部屋が目的だったのだ。部屋はまっ暗だったが、ずっと目を開けていたエイルの目は闇に慣れている。足音の主である、二つの影が部屋に入ってきたのが、布団のふちから見えた。高鳴る鼓動が彼らの耳に入るのでは、と思う。息が苦しくなったが、咳払いも、喉を鳴らすことさえ、怖くて出来なかった。

彼らはやはり盗人であるようだった。寝台の足元にある荷袋や脱ぎ捨てた服などを探る気配が感じられる。

――一番欲しがるのはやはりこれだろうな。

エイルは手に力を込めた。汗が滲んだ手には、金貨や銀貨が入った袋が握られている。寝る前に、「大切なものだから、肌身離さず持っていろ」と双子に言われたのを思い出し、布団の中に引っ張り込んだのである。

――私の布団をはいだりしないだろうな。

残忍な盗賊が袋を取り上げ、剣を振りかざしているところを想像する。エイルは思わず身震いした。最初に客を殺そうとするような輩(やから)でなかったのは幸いだが、一番の目当てがないと分かったら布団をはぐかも知れない。

二人の影が、低い声で言い交わし始める。大柄な方が、小柄な方に文句を言っているようだ。

「ないじゃねぇか。ちょっと、どうなってんです?」

「うるさいぞ、よく探せ。第一、こいつらが金貨をたんまり持ってると言ったのはお前だぞ」

「そりゃそうだけど、どこ探してもねえんだから……」

「大きい声を出すんじゃない」

「どうせこいつら起きやしねぇよ、特製スープでぐっすりおねんねだ」

「ああ、俺が作ったんだからそれは確かだ、そうさ、お前の言う通りだよ。だがな、いいか、隣の部屋にだって客はいるんだ。分かったら静かにしろ」

「ちっ」

――まさか……。

舌打ちをしたのは、下男のアルダだった。もう一人は、察するところメイソンだろう。物音に敏感なシキやクリフが起きないのは、どうやらそれなりの理由があるからのようだった。怪我や疲労も理由の一つなのだろうが、そこには人為的な策略があったようだ。おかしな味がする、とエイルが感じたのは間違いではなかった。味にうるさいエイルの舌は、クリフたちより敏感だったのだ。

エイルは、怒りに燃えた。何と非道な、と、布団の中で身じろぐ。アルダとメイソンはそれに気づきもせず、荷袋を探り続けている。

「ああ、これはどうです? 金貨じゃねえけど、いい剣だぜ」

「どれどれ……ほお、なかなかの品だ。金になるのは間違いないな。よし、これをいただくか」

アルダが見つけたのは、部屋の奥、シキの寝台の横に置いてあった長剣だった。メイソンも近寄り、漏れ入る月の光にそれをかざした。

レノア王エイクスがシキの働きに対して与えた剣は、明らかに一般に使われる剣とは違う品だった。一介の剣士が持ち歩く剣としては充分すぎるほどに意匠を凝らした、立派な剣である。飾るための剣ではないゆえにごてごてとした装飾がされているわけではないが、しかしそれでも、宝飾品といって差し支えないほどの美しさを誇る。二人が頷きあってそれを手に取った瞬間、甲高い声が部屋に響いた。

「それを奪う事、まかりならん!」

制止の声に、二人の男は凍りついた。慌てて振り返ってみれば、扉の近くの寝台から、一人の少年が立ち上がったところである。青い透明な瞳が、怒りに満ちて二人を睨みつけている。

「その剣はシキの命にも等しいのだ。お前たちになぞ渡すものか!」

二人は呆れたようにエイルを見つめた。その視線でエイルは、自分が何をしているのか、ようやく気づく。武器も何も身につけていない、無防備な少年である自分が、寝台の上で賊に指をつきつけているのだ。あまりの驚きと怒りに立ち上がってしまったが、この先どうすればいいのか全く分からない。賊を睨みつけてはみるものの、二人は全くもってエイルを相手にしていない。

「何でぇ、眠り草で寝てるはずじゃなかったんですかい?」

呆れ返ったような声で、アルダが尋ねる。メイソンは首をすくめて、「知らん」と言い捨てた。

「あいつが起きてる理由より、あの大事そうに抱えてる袋に用がある」

「ああそうか。……おい小僧、なぜ起きてるか知らねえが、その袋をこっちへよこしな。いい子だから大人しく、な」

「お前一人じゃ何も出来やしねえ。いいから早くよこせ」

二人はたかが少年一人、と高をくくっているのだろう。手を伸ばして詰め寄った。その顔には馬鹿にしたような薄ら笑いが浮かんでいる。それを見た瞬間、恐怖より腹立たしさがエイルを支配した。

「渡すものか!」

袋を胸にひしと抱きしめ言い放つと、やおら扉に向かって走り出す。

「ま、待てこら! 逃がすわけにゃいかねえぞ!」

「いい機会だ。この剣で試し切りといこう」

メイソンは残忍な表情で剣を持ち、一足先に部屋を駆け出したアルダを追った。エイルは必死に廊下を駆け抜け、階段に辿り着こうとしていた。先回りしようとするアルダをするりとよけて、階段を転がるように駆け下りる。大柄なアルダは追いかけようとした拍子に、階段の低い天井に頭をこすりつけてうめいた。

「アルダ、そこをどけ!」

言いながら、体の小さなメイソンは階段に飛び込んだ。アルダが後に続く。メイソンは振り向きもせず、階段を降りてくる下男をなじった。

「こんな小僧一人に何を手こずることがあるんだ。馬鹿め、早く来い!」

その顔は善人とは言いがたく、昼間のメイソンとは別人のようだった。薄茶の目には狂気じみた光が浮かび、分厚い唇がいやらしく歪んでいる。叱責されたアルダは首をすくめ、「怖い怖い」と呟いた。

食堂は暗かったが、月光があるおかげで物影が分かる程度には明るい。夜半であるからして、当然静まり返っている。しかしエイルが逃げ回るのと、二人がそれを追い回すのとで、椅子や机がうるさい音を立てる。メイソンたちは「騒ぎを聞きつけられては」と、思うように動けない。そのおかげで何とか捕まらずにすんではいたが、このままではどうにもならないことは想像に難くなかった。

「く、来るな!」

ついに二人に詰め寄られ、エイルは怯えて後ずさった。

「そう言われて止める奴がいると思うか」

メイソンがにやりと笑う。エイルは半泣きだ。しかしその時、目の端に皿が積み上げられているのが映った。

「うわっ、やめ……!」

メイソンが言い終わる前に、エイルは勢いよく両手を伸ばし、机の上の皿をすべて払い落とした。硬い床に多くの皿が叩きつけられ、物凄い音が響いた。アルダとメイソンが思わず肩をすくめた隙に、エイルは身を翻す。アルダが怒りをあらわにして駆け寄ってくる。メイソンもあからさまな殺意を持ってシキの長剣を抜く。

「私がお前らなどに負けるものか!」

叫びながら扉に駆け寄り、開け放つ。怒り狂ったメイソンたちの手があと一歩で届く、というところですり抜け、エイルは裸足のまま、通りへと駆け出した。

「あのくそがきめ、どこ行きやがった!」

アルダが叫び、彼らはエイルを追って大通りへと飛び出した。きょろきょろと見回したが、大通りのどこにも少年の姿はない。

「逃がすわけにはいかないぞ。早く追うんだ!」

「ふざけやがって、あの野郎!」

「アルダ、お前はあっちだ! 俺はこっちへ行く」

怒り狂った二人の男は、大通りを駆け出した。

誰もいなくなった宿の入り口で、扉の影からエイルが姿を現す。

「こういうのが……そうだ、灯台下暗しというのだ」

高鳴る動悸を抑えながらも、エイルは小さく笑った。しかし、遅かれ早かれメイソンたちはここへ戻ってくるだろう。その前に何とか手を打つ必要があった。クリフたちは恐らく、目を覚まさない。例え起きたとしても、怪我人のシキを移動させるのは難しい。自分だけで何とかしなくてはならないのである。しかし、何が出来ると言うのだろうか。エイルは、自分の弱さを改めて痛感した。

「くそっ」

思わず、王子にあるまじき言葉を吐き出す。しかしその時、突然ある考えがひらめいた。

「素晴らしい!」

自画自賛すると、宿の裏手へと走り出す。メイソンの宿の裏手は、やはり宿屋だった。その隣は古道具屋で、更にその隣はまた宿屋である。エイルはその最初の宿屋の扉を、思い切り大きな音を立てて叩き始めた。

「開けろ! 泥棒だ! 扉を開けるんだ!」

思いつくままに叫びながら、エイルは扉を叩き続けた。しかし時刻は真夜中である。反応は返ってこない。焦ったエイルは隣の古道具屋の扉へと走った。そこでも同じように叫びながら扉を叩く。エイルが大声で騒いだからか、中から物音がする。が、それとほぼ同時に通りの向こうからアルダの、そしてメイソンの声が聞こえてきた。

「そっちか小僧! 騒ぎ立てやがって!」

「今ぶっ殺してやるからそこで待っていろ!」

エイルは、当然だが、大人しく待ってはいなかった。メイソンが言い終わる前に、更に隣の宿屋へと走っている。

「泥棒だ! いや人殺しだ! ここを開けろ、私を助けろ!」

手が痛むのも構わず、エイルは必死で扉を叩いた。しかし、やはり反応はない。夜中であることが災いしているのか。メイソンとアルダが駆け寄ってくるのが目のふちに映る。恐怖したエイルが再び走り出すのを、メイソンは許さなかった。剣を思い切り振り上げる。エイルは扉に背を押しつけ、ここまでか、と息を呑んだ。恐怖で身がすくむ。しかしメイソンは思った以上に重いその長剣を、片手では操れなかった。剣の切っ先がエイルの左肩に振り下ろされる。エイルは目を見開き、死に物狂いで右へ避けた。長剣はエイルの上着と肩先をかすめたに過ぎず、結果、メイソンの怒りは更に高まった。エイルは、衝撃と熱さにも似た痛みが走った左肩を抑えて座り込んでいる。

「アルダ! この小僧を押さえつけろ!」

メイソンは下男に向かって怒鳴ると、再び、今度は両手で剣を振り上げた。と、その時急に宿の扉が開いた。エイルの襟首を掴んだアルダと、剣を持ち上げたメイソンは、そのままの姿勢で凍りついた。

「随分と物騒ね」

扉を開け、美しい声をこわばらせて言ったのは、背の高い女性だった。豊かな黒髪が波打ち、卵型の美しい顔を縁取っている。意志の強そうな瞳は、宝石のようなきらめきを放つ瑠璃色だ。こんな時間まで起きていたのか、寝巻きではなく、胸の部分をゆったりと大きく開けた上着に、丈の長いスカートをその細身にまとっている。エイルは慌てて彼女の後ろに隠れた。

「ひ、人殺しだ」

エイルが指差しているのはメイソンが手にしている長剣である。メイソンとアルダはそこで初めて、我に返ったようだった。

「ティ、ティレル!」

「あんたたち、いよいよ本性を現したってわけね」

「いやっ、違うんですよ」

メイソンは慌てて剣をアルダに渡し、両手を広げて敵意のないことを示そうとした。いつもの柔和な笑顔に戻ってはいるが、額に汗が浮いている。剣を振り回して少年を殺そうとしていた事実をどう誤魔化そうか、この場をどう言い抜けてくれようか、とメイソンは物凄い勢いで考えていた。アルダも青ざめている。エイルがティレルの後ろに回り、勝ち誇ったように叫んだ。

「そいつらは私を殺そうとしたのだ。しかもその剣は、私の連れのものだぞ」

「どうやらそれが真実らしいわね」

「そ、そ、そんな子供の言うことを信じてもらっては困る、何を根拠に……まさかそんな、あるわけがないでしょう、善良な宿の主人が子供を……なんて、そんな、いいですかティレル……」

メイソンが必死で言いかけた時、ティレルが何かを指し示した。アルダとメイソンがつられて振り向くと、そこに人々が集まり始めている。エイルが大声で叫んだのは無駄にならなかったようだ。近隣の家々には明かりが灯され、寝間着姿の人々が戸口に姿を見せていた。彼らは一様に、不審そうな顔でこちらの様子を伺っている。ティレルの宿の前にも、かなりの人が集まっていた。ティレルの宿の隣、さっきエイルが呼んだ古道具屋の主人や、その隣の宿の夫婦の顔もその中にある。

「あんたら、そんなもんを振り回して、一体何をやってるんだい?」

「いや、その、これはですね……」

メイソンは焦り、アルダは頭を抱えている。

「メイソンは私たちの部屋に忍び込んで、金を奪おうとした。あまつさえ、私を殺そうとしたんだ」

エイルの声に、人々はどよめいた。その肩に血が滲んでいるのを見て、ティレルは眉をひそめている。彼女は「手当てをしなくちゃね」と言うと、一度宿の中へ姿を消した。

「いや皆さん聞いて下さい、事情があるんですよ」

メイソンが流暢に話し出している。彼は動揺する心中を顔に出さぬようにしようと、必死だった。

「全てはその子の勘違いなんですよ。彼らの一行は私の宿に泊まっているんです。客の持ち物を盗むなんて真似を、私がするわけないじゃないですか。お連れさんが怪我をなさってるんで様子を見に行ったんですよ、私とアルダは。もちろん親切心です。それを何か勘違いされたんでしょう」

「そんなわけないだろう! 夜中にこっそり忍び込んで、金が見つからないって言ってたくせに」

「嫌ですね、人聞きの悪い。そんな事を言うわけがない」

「シキの剣を盗んだじゃないか!」

エイルは怒りのあまり興奮して叫んだ。人々の視線がメイソンとエイルを行ったり来たりしている。メイソンは冷静を装ったまま、丁寧な口調で言った。

「私がこの剣を盗んだ? そんな証拠がどこに?」

一部始終を見ていたエイルはあまりの言葉に呆れ返った。その長剣は、エイルの父エイクスがシキに与えた物だ。レノア王家の刻印は入っているが、そういう剣は他にもある。素晴らしい品で、アルダやメイソンのような階級の者が持っているようなものでないのは確かだが、絶対に持っていないとは言い切れない。証拠と言われれば、言葉は喉につまる。エイルは唇を噛んだ。

「それはあんたのものじゃない、シキって人のものだよ」

張りのある声がし、人々はその声の主を振り返った。

「セサル!」

「今朝、その剣を見たよ。彼らの部屋で見た。確かに、その剣だった」

エイルは驚きと喜びの入り混じった顔でセサルを見つめている。セサルは茶褐色の目を片方だけつぶってみせた。エイルの肩を清潔な布で覆うように結んでいたティレルが淡々と言う。

「私が出た時、あんたは剣を振り上げてたわね。この子に向かって振り下ろそうとしてた」

「そ、それは、いやその……」

一旦は何とか逃れられるかと思っただけに、メイソンの慌て振りはひどいものがある。状況はメイソンに有利になるどころか、ますます深みにはまっていく。額の汗を拭きながら、メイソンは何とか言い訳しようと口を開け閉めした。近所の宿の主人が、隣の宿の夫婦と話している。

「メイソンとこは、客が金を持ってないからって身ぐるみはいで追い出すっていう噂だな」

「ああ。だが噂じゃなかったようだね。それだけだってあくどいが、追い出された客が本当に金を持ってなかったか……怪しいもんだ」

「夜中に客の金品を盗んでおいて、それで翌朝、金がなきゃ荷物を置いて出て行けっていうわけね」

「もしそれが本当なら、ひどい話だ」

「嘘です、嘘に決まってます、そんなのは単なる噂話! 子供の言う事を信じるなんて、あんたらはどうかしてるんじゃないですか? え? 子供の戯言(たわごと)を信じるなんて……」

メイソンは両腕を振り上げて抗議したが、最早それに耳を貸す者はいなかった。古道具屋の老人がしわがれ声を張り上げる。

「おいメイソン! あんたがどんな商売をやろうと、私にゃあ関係ない。だがな、子供を傷つけるなんて事は許さんぞ」

「そうだ! それに、盗みは重大な罪だぞ!」

人々の中からメイソンを非難する声が次々と上がり、メイソンとアルダは目を白黒させた。

「そうだ。許される事じゃない」

張りのある声が、人々の間から再び上がった。集まっていた人々は、ひときわ大きな声を上げたその人物を振り返った。小柄だが肉付きのいい体格で、頭は見事なまでに禿げ上がっている。後ろ手に両手を組んだ男は、人々をかき分けて進み出た。その堂々たる様子に、人々は彼が話すのを待って、静まり返っている。

「お前のやっていた事は、罪だ。そうだろう?」

男は繰り返すと、首を傾けてメイソンを見た。

「これはデュレー全体の宿にも影響する事件だ。メイソン、お前は宿屋ギルドの裁判にかけられるだろう。恐らくは有罪だな、確証はないが……」

「ま、待ってくれ、ヘッジ」

「メイソン」

「い、いやヘッジさん! ちょっと待って下さいよ、第一そんな馬鹿な話があるものですか、私は善良な……」

「親愛なるメイソン、お前とは長い付き合いだ。これまで、お互い上手くやってきた。お前が少々歪んだ商売をやろうとも、私たちの関係にひびは入らないと思ってたんだ。しかし私は甘かったようだな。友人として忠告すべきだった。きちんと罰は受けるんだ。罪は罪だよ、メイソン」

メイソンは口を半開きにしたまま、半ば信じられないという表情で突っ立っていた。ヘッジはそんなメイソンを無視して続ける。

「お前はいつも、考えが浅いんだ。……少しばかりね。今回の事は私も非常に遺憾に思う。お前がしでかしてしまった事は、もう取り返しがつかない。諦めるんだな」

首を振って、「残念なことだ」と付け加える。

ヘッジは宿屋ギルドの長であり、同時にデュレーの宿の多くを経営している町の実力者だ。これまでにも町で起こった色々な問題を解決してきた人物で、事実上、デュレーの町を取り仕切っているのはヘッジなのである。

「皆さん、この男は私が責任を持って預かりましょう。我々宿屋ギルドの裁判にかけ、公平な裁きを下し、必要であればそれなりの処分を言い渡します。それでよろしいですね?」

「ああ、ギルドで決めるのが一番だ」

「そうだな、後はヘッジさんに任せるのがいいだろう」

彼の言葉に反対する者はいない。ヘッジはメイソンから剣と鞘を取り上げ、扉の脇でティレルに隠れるようにして立っていたエイルに手渡した。シキの長剣は、エイルの肩に届く長さである。剣を鞘に収めることが出来ないので、仕方なくエイルは右手に剣、左手に鞘を持ってヘッジに頷いた。

「ヘッジとか言ったな、礼を言うぞ」

「これはこれは……。まるで貴族様のような物言いだな。少年、頭ぐらい下げたらどうだ」

エイルは、その言葉にはっとした。頭を下げるなど、彼は思いつきもしなかったのである。しかしヘッジの言葉は恐らく常識なのだ、と、エイルは思った。助けてもらったのだから礼を言う、頭を下げるのが当たり前なのだろう。

エイルは悩んだ。この場にいる人々から見れば、自分は一市民であり、少年に過ぎない。貴族ではなく、ましてや王族ではないのである。誰一人として、エイルが王子だなどとは思わないだろう。彼がどれほど主張したところで、何の根拠もない。やはり、頭を下げなければならないのだろうか。王子である自分が、この、自分を見下ろしている男に。愕然として、エイルは黙り込んだ。時間にすればほんの少しだったが、エイルの頭の中で、相反する二つの考えが目まぐるしく入れ替わった。

「ふむ、親の躾がなってないな。……まあいい」

ヘッジは少々軽蔑したような色をその顔に浮かべ、エイルから目を背けた。

「ティレルさんを始め、お集まりの皆さん、夜中に騒がせて申し訳なかった。それでは私はこれで」

ヘッジは人々に一礼すると、メイソンとアルダについてくるよう促して、メイソンの宿の方へ歩き去った。人々もそれをきっかけに、三々五々帰っていく。古道具屋の老人はエイルの肩に手を置き、怪我を大事にしろよ、と言い残していった。そうして家々の扉が閉まり、デュレーに夜の静寂が戻ってきた。後に残っているのは、複雑な表情のエイルと、ティレルだけだった。

「メイソンたちと宿に戻るのが嫌だったのね?」

ティレルは両手を腰に当てている。エイルは無言のまま頷いた。それからおもむろにティレルを見上げ、尋ねる。

「私は、躾がなっていないと思うか?」

思わぬ問いかけに、ティレルはその少年をまじまじと見つめた。寝間着姿の少年。寝癖のついた髪。靴もはいていない。お世辞にも奇麗とは言い難い格好で、事情を知らなければ「だらしない」としか言いようがない。しかし少年の透き通るような瞳と、一文字に結ばれた唇ははっきりとした意思を持ち、生まれながらの性質は確かに王族の風格を備えていた。ティレルは少年をしばらく見つめ、それから真顔で言った。

「あんたの躾がなってないとは思えないわ」

「そうか!」

「だけど、人に礼を言う時は、やっぱり頭を下げるものよ」

エイルは歓喜の色をありありと浮かべたが、ティレルの言葉に再び沈黙する。エイルは、葛藤していた。そしてようやく出した結論を自分に納得させ、大きく頷いた。長剣とその鞘を地面に寝かせる。それからエイルはティレルの瑠璃色の目を真っ直ぐに見た。

「ティレル、助けてくれてありがとう」

城にいる時、教養係にうるさく言われて嫌だった、正式なやり方を思い出す。かかとを合わせ、左手は腰の後ろに、右手は胸につける。そうして背筋を伸ばしたまま、腰から上体を折る。エイルは自分に出来る最高の礼儀を持って、ティレルに礼を言った。

「どういたしまして」

ティレルは二サッソ近くも背の低い少年の礼を見て微笑み、長いスカートのふちをつまんで膝を曲げた。

「……さて、このままここで立ち話というわけにもいかないわね。メイソンの宿に行かなくちゃ」

「うむ。私の連れをあの宿に置いておく訳にはいかん」

「うちも宿をやってるのよ。良かったらこっちへ移る? まあ、メイソンのところよりは良心的だと思うわ」

ティレルが微笑むと、綺麗な顔立ちにほんの少しのあどけなさが見える。エイルはティレルの申し出に頷き、彼女と連れ立ってメイソンの宿へと向かった。

――冗談じゃない、何故こうなるのだ。

メイソンは心の中で吐き捨てた。口に出してヘッジに気づかれようものなら、何を言われるか知れたものではない。メイソンにしてみれば、ヘッジの禿げ上がった後頭部を黙って睨み付けるのが精一杯である。

「ああメイソン、お前は本当に頭が悪いね。客の荷物を盗もうだなんて、いつまでも続くことじゃないと何度言ったら分かる? 宿の資金繰りが苦しいのは知っている、だが盗みはもうよせと言ったじゃないか」

――あんたにゃ関係ない。

そう思ったが、やはりこれも言えることではなかった。メイソンは黙ったままでうつむいている。ヘッジは「文句も言い飽きたよ」と言い捨て、腕を組んだ。

宿の扉を叩く音がする。ヘッジは、来たか、とばかりに扉を開けた。

「やあティレルさん、それに何と言ったかな……」

「エイルだ」

「そうか、エイル君、戻ってくるのを待っていたよ。さあ入ってくれ」

小さな明かりだけが灯された薄暗い食堂で、四人は向かい合って席に着いた。

「まずは私からもう一度詫びよう。エイル君、このメイソンが馬鹿な真似をしてすまなかったね。ティレルさんもだ。こんな夜更けに騒がせて申し訳なかった」

「いえ、それはいいのよ。人助けが出来て良かったわ」

「君たちの要求は分かりすぎるほど分かっている。そちらの宿に移りたいと、そういう事だろう」

「物分りがいいのね」

「メイソンはもちろん断らんよ、なあそうだろう?」

そう言って、ヘッジがメイソンの肩を叩く。メイソンは視線を合わせないようにしながら、しぶしぶ頷いた。

「彼らが目を覚ましたら、荷物とともにそちらに移れるよう手配しよう。ここでの宿泊賃はいらんし、朝食代もお返しする」

「え、いや、ちょっと待ってくれ、それは……」

「何か文句でもあるのか? メイソン、迷惑をかけた上に金まで取ろうというんじゃないだろうな、え? そんな事はこの私が許さないぞ」

――うちの宿の事だぞ、あんたの許可なんか必要ない。

メイソンは額に青筋を立てた。だが結局は何も言わなかった。そして、彼はその後も発言を許されぬままだった。何一つ得する事がなかったメイソンは歯噛みしたが、ヘッジに盾突くことは出来ない。納得がいかない結果を悔しさとともに飲み込む以外、メイソンに選択肢は用意されていなかった。

そして翌朝には、シキたち四人と彼らの荷物はすべてティレルの宿へと移された。姿をくらましていた下男のアルダ以外、メイソンまで含めた全員が、ヘッジの申し出により、移動を手伝わされたのである。

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