それは到底、頷けることではなかった。積年の恨みを晴らし、彼の支配する軍隊をもって王権をもぎ取ったコジュマールにとって、相手が誰であろうと王座を明け渡す事は死にも等しい。まさしく、王の座こそが彼の命、存在の証明、生きている価値そのものだった。
彼は、弟に生まれた。
その二年前、彼の兄がこの世に生命を受けた。
始まりは、ただそれだけだった。
だがそれは彼にとって人生のすべてを決める重大な出来事であった。
生まれた瞬間から、コジュマールは「予備」であった。
次代の王となるべき兄エイクスに何かあった時のための。
つまり、何もなければ、彼は不要な存在だった。
父王が政局を退き、存命中に指名されて兄は政権を継ぎ、大国レノアの王となった。
寛大なる兄王は弟に軍隊を任せたのではあるが、コジュマールにとってはその憐れみ深い慈悲こそが煩わしかった。
コジュマールは、王になりたかった。
彼が欲しいのは王座だけだった。
兄王が結婚して王子が生れ、自分が後を継ぐ可能性がほとんど無くなったと思った時、コジュマールはその計画を胸に抱いた。
――古来より、良くある話だ。……俺は取れる。軍はすべて俺のものなのだから。
王位を継ぐ予定の王子が十七になり、婚姻の話が出た頃、コジュマールは計画を実行に移した。
軍隊による反乱はほんの数日で決着した。武力で抵抗出来る者はなく、王家の一族はその多くが国に混乱を導くものとして処刑され、コジュマールは王として即位した。
将軍や騎士たちは働きによって褒章を与えられ、以後レノアは軍事国家として位置づけられた。
コジュマールは満足だった。
唯一、行方不明と報告された第二王子だけが心配の種だった――。
コジュマールの不安が的中する日が来ると予想しえた者は唯一人もいなかった。レノアの最高司祭であったジルク老であれば予見したやもしれぬ。だが反乱の朝に彼がその命を落として以来、彼ほどの予見能力を持った者は出現しなかった。
第二王子が行方不明になってから約十年の月日が流れ、「その日」がついに訪れた。コジュマールは目の前に立つ現実を受け入れられず、怒りにこぶしをわななかせるばかりである。
「繰り返しますが、既にレノア城で私に刃向かう者はおりません。残念ながら叔父上は失脚されたのです」
「な……何を申すか! おっ、お前は……お前は……!」
「私が、王の息子として王位を奪還しにきた。そうお思いですか?」
コジュマールは目を血走らせて眼前の敵を睨みつけた。十年前の面影を十分に残しながら、相手は既に少年の域を脱し、青年に移り変わっている。
自分と同じように次男として生まれながら、王になろうという野心を抱かず、のびのびと明るく育った甥っこ。二年ほど行方不明だったが、北方の田舎町にその姿を見せてからは各地を回って味方を増やし、時には戦い、そしてついにこの城に戻ってきた。
「エイル……貴様」
「私は王位が欲しいわけではありません。もっと言えば、王など誰がやっても良い。きちんとした執政者であるならば」
「綺麗事を抜かすな。王位は王家一族のものと決まっておる! それが昔からの……」
「叔父上の理論であれば、先王の弟である叔父上より、実子である私の方が継承順位は上のはず。わたくしが戻ってきた以上、大人しく王位を明け渡してしかるべきではありませんか」
「く……っ」
「叔父上はこの十年、権力の上に胡坐をかき、民の苦労や疲弊を顧みず、すべてを人任せにして、国が傾くに任せた」
コジュマールの目が見開かれ、半開きの唇が怒りに震えた。
「私が王位の掠奪者とされるか、あるいは王位を奪還した英雄となるか、それは後世の歴史研究家の判断に任せます。ですが、今、このまま叔父上に伝統あるレノア国を任せ続けるわけにはいきませぬ。気持ちを改め、私たちにご協力願えますか? 叔父上が軍の最高指揮官であった頃、我が国の軍は非常に良く統率されていたと思います。その能力は買いましょう。改善に手を貸してくださるなら、祖国追放には致しません」
「ふっ……ふふふっ、既に王のような物言いだな。この国は……まだ私のものだ」
「確かにそうです。味方はいませんが」
「ええい、うるさい! 小癪な小僧め、講釈を並べ立てておらんで、剣を抜け!」
「軍の最高指揮官であった叔父上らしいお言葉ですね。では、受けて立ちましょう。私とて、個人的には両親と兄の仇を取りたいのですから……!」
そこで初めてエイルの瞳に炎が宿った。それまでは極力感情を抑え、冷静に事実を述べていたエイルだったが、実際にコジュマールと剣を合わせるとなるとそうはいかなかった。
コジュマールは軍の最高指揮官であり、当然一人の武官としても最強の騎士として恐れられていた。あの反乱が起こった時の、十二歳のエイルから考えれば、到底太刀打ちできる相手ではない。恰幅の良い、立派なひげを蓄えた叔父は、見上げるほどに大きく、実際に強かった。
だが今のコジュマールは、エイルが思ったよりずっと鈍く、その動きを見切るのはさほど難しいことではなかった。王位についてからというもの、コジュマールは稽古で体を鍛えることなどほとんどしていなかったのだろう。丸く突き出た腹ははち切れんばかりで、剣を振りまわす腕もぶよぶよと揺れている。若い力に溢れ、実際の戦争経験を積んでもいるエイルにとっては、勝つのは時間の問題だった。
「くそっ! くそぉぉぉっ!」
口から唾をまき散らし、コジュマールは闇雲に剣を突き出してきた。十年前なら鋭かっただろうその切っ先を素早く避け、エイルは窓に駆け寄ると大きく開け放った。
「聞こえますか、あの声が!」
大きく開かれた城門を抜け、レノアの城下町から民が多く城になだれ込んでいた。彼らは口々にコジュマールの悪政を責め、新しい王の誕生を望んでいる。
「観念してください。もう、貴方に出来る事は、ないのです」
息を切らし、唇を噛んだコジュマールの顔面は蒼白である。その目は血走り、額には青筋が幾本も浮かんでいた。それからコジュマールは、大きな体でよろりと窓へ寄った。まるで酒に酔ったような動きだった。誰もが動かずにそれをじっと見つめていた。
「民が……」
コジュマールはそう呟くと、ゆっくりこちらを振り返った。その顔には表情というものが何もなく、虚ろな瞳は何も見ていない。ただ空中に据えられているだけの、空っぽの瞳だった。
「今更言われるまでもない……。民が俺を受け入れていないことなど……最初から分かっていたさ。お前が民に選ばれるなら……それも良かろう。王の座を失うなら、もう俺の生きる価値は……」
言葉の最後まで待たず、エイルや回りの兵士たちがコジュマールに手を伸ばした。常にエイルのそばに付き添っていたシキが、誰より早かったかも知れない。だが、そのシキですらもコジュマールの体が窓のふちの向こうに消えるのに間に合いはしなかった。
「叔父上……」
低い位置まで窓を開けた構造は、まさかこういう時のためだった、などと誰が言うだろうか。だがそれは不運なことにコジュマールに自らの命を断たせる結果を招いた。
「殿下」
シキが低い声で呟く。
「これで終わりですね」
その言葉に応えて、エイルはシキを振り返った。
「いや。これが始まりだ」
何も言わず頭を垂れるシキに視線を送り、エイルは小さく頷いた。
「まず、伯父上の体を引き上げねばならん。スグリ、行ってくれるか」
シキ同様、エイルとともにこの戦いをくぐりぬけてきたスグリが素早く頷く。肩の怪我はひどくないようだ。スグリはすぐに数名の兵を連れて部屋を出て行った。
「私はジルクの部屋へ行く。シキ、ついてこい」
他にもエイルにつき従おうとする兵士たちを手で制し、エイルは「シキだけで良い」と硬い声で言った。
あの朝、ジルクは塔の部屋で命を落としたと聞いている。ジルクの息子であるムルカがレノアの最高司祭を引き継いだというが、コジュマールのいる城を嫌い、個人の屋敷で活動していたという。ジルクの部屋は片付ける者もなく、ある程度の片付けや掃除はされたものの、荷物などはそのままであるようだった。
――我々を転移させた、あのすぐ後に……。
エイルは唇を噛んだ。前を見据えて早足で歩いていくエイルに従い、シキも無言で塔へと向かう。
ジルクの部屋があった塔は、北の塔と呼ばれていたが、最近ではジルクの塔と呼ばれているらしい。階段を上がり、最上階にある部屋を目指す。松明に火を灯し、壁にあるろうそくに火を移しながら登っていく。二人は終始無言である。ようやくエイルが口を開いたのは、ジルクの部屋の前に立った時だった。
「ジルク……」
反乱後の騒動にまぎれ、葬儀もきちんと執り行われなかったと聞く。エイルは悔やんでも悔やみきれない思いを胸に、扉をゆっくりと押し開けた。部屋の中は雑然とし、まるで奥からジルクが姿を現すかと思うほど、あの頃と変わらなかった。
「さきほどの……やはりこれは」
シキが取り出した紙片に向かって囁くように言った。
「我のみ知る、王家の秘密、書簡を隠す……か」
エイルもその文言を確認し、シキと目を合わせた。
「兵士たちと塔の部屋をすべて調べていた際、偶然見つけまして。兵士たちに見られぬよう持ち出しましたが、元はこの本棚の後ろに隠されていました」
シキはそう言い、部屋の隅に置かれた古い本棚を示した。エイルは再度紙片を覗きこみ、頷く。
「間違いなく、ジルクの筆跡だな」
「そうですね。隠された書簡が、どこにあるのか……」
「ジルクのことだ、意外とそこらに放り出してあるかも知れん。物の管理は下手だったからな」
エイルは昔を振り返り、微笑を浮かべた。だが、日記は非常に周到に隠されていて、部屋の隅の壁と床の境目に小さく彫られた印を見つけるだけでかなりの時間を要した。ジルクはよほど念入りに隠そうとしていたのだろう。その気持ちを思うと、そこに書かれているという「王家の秘密」がどれほど大きなものなのか――エイルとシキは知らず喉を鳴らした。頁をめくり、目を通す。
『429年春風の月――』
「429年というと、私はまだ三つだな」
「私は十五です。初めてレノアに来た年ですね」
「そうか。ああ、ここに書いてある」
『旅の芸人集団が城下を訪れた。陛下が拝謁を許され、数人の芸人が王城にて芸を披露――』
「我々の旅団のことが書いてあるとは……」
「シキは、短剣投げなどをしていたのだったな」
「ええ、まあ」
そう言うシキの目は、その次に続く文章に釘づけになっている。
『陛下は集団の一人で、城へ来た内で一番若い少年を城に迎え、貴族として通用するように礼儀作法などを教えろと仰られた。
……あの事件を思い出さないわけにはいかない。
陛下のご長男様はシエル様ではない。412年月光の月。ご長男様はお生まれになってすぐ、名付けの儀式すら終える前に、乳母と、そやつが手引きした男に誘拐されたのだ。陛下と前妃様は悲しみに暮れられ、国民には死亡と伝えられた。手を尽くして探したが見つからず、三年後、シエル殿下がお生まれになるに至って、両陛下はご長男様を諦め、シエル殿下をお世継ぎとされたのだった。その後420年に前妃様が亡くなられ、すぐ東の国から新しい妃様が嫁いで来られ、425年、エイル殿下がお生まれになった……』
シキとエイルは何も言わず、むさぼるように先の頁をめくった。
『陛下が私に預けた少年はシキと名乗り、苗字はなく、旅団育ちだと言った。顔には前妃様の面影があり、その深い緑の瞳こそ彼女に生き写しであった。
私は陛下に「まさか」以上のことが言えなかった。陛下は黙って頷かれ、私はその深いご意思を汲み取った。
陛下は、シキの出生について明かされるおつもりはないのだ。
既に帝王学を学ばれ、レノア王になられるご自覚をお持ちのシエル殿下やマードリッド妃、またエイル殿下に余計なご負担をかけられまいとのお考えであった。だがシキはお傍に置くと仰られ、ご病気で亡くなられた前妃様と、幼くして行方不明になられたご長男様への深い愛情をお示しになられたのである。
シキには貴族としての教育を受けさせ、館を一つ与えた。すぐに騎士としての才覚を顕し、十七で入団。緑旗隊に配属された』
「これは……」
エイルの言葉に何も反応せず、シキは棒のように立っているばかりだった。言葉を失い、頭の奥がしびれているのを感じている。エイルが乾いた唇を舐めて言い直す。
「これはまさしくシキが」
「殿下」
それ以上は言うなとばかりにシキは強く制止した。だがエイルは静かに続ける。
「シエル兄上の前に生まれた男児は、幼き頃に行方不明になり、それがどういう偶然でか父上と再会した。ジルクの日記に間違いはないだろう。だとすれば」
「殿下。エイクス陛下とシエル殿下亡き後、正当な王位継承権をお持ちなのはエイル殿下です」
「王など誰がなっても良い」
「そうであるなれば尚更」
シキは真っ直ぐにエイルを見つめ、きっぱりと言い切った。
「次期レノア国王はエイル殿下です」
「……」
「私が何者であろうと、そんなことは関係ありません。私は陛下、シエル殿下、そして誰よりエイル殿下に永遠の忠誠を誓う、レノア王国騎士団の一員であります」
エイルは何も言わなかった。エイルを見つめる、深い緑の瞳には言葉にすることの出来ない深い想いが込められているようだった。
「殿下。どうかご理解ください。私は……」
「分かった」
短く言うエイルの顔は真摯で、決意に満ちていた。
迷わずに火の術法を唱える。羊皮紙を燃え代とした術法はすぐにその効力を発し、ジルクの日記の数頁はしばらくして消し墨になった。
「我々にはすべきことが山のようにある。まだ負傷者もいるだろう。混乱も治まってはいない。後片付けもせねばならん。城下町の整備をし、民への触れを出し、新しい人事もせねばならぬ。それに……私の戴冠式の準備をせねばなるまい」
「殿下」
「戴冠式の後は『陛下』と呼べよ」
エイルは素早く片目をつぶって見せた。シキは唇を噛みしめ、黙って膝をついた。
「私は、エイル様に生涯の忠誠を捧げます」
「頼りにしているぞ」
立ち上がったシキを嬉しそうに見つめ、エイルは言った。
「私に兄がいて、嬉しく思う」
「エイル様……」
「行こう!」
エイルは颯爽と顔を上げ、ジルクの部屋を出た。晴れ晴れとした顔のシキがその後についていく。二人とも、もう何も言わなかった。
塔を出ると、兵士がすぐに彼らの姿を見つけ、探していたと慌てて寄ってくる。
「心配をかけた。ジルクの部屋にいたのだ。……状況はどうだ」
「多少の混乱はありますが、元々は誰もがレノアの兵士です。殿下に対する戦意などありませぬ。民も、城下へ戻らせました」
「それは良かった。ではまず負傷者の手当てを急げ。それと城や町の復旧作業にかかる時間と金額を算出させろ。それから誰か文官……そうだな、ムルカか、あるいは司祭長を勤めていたイザナがいれば呼べ。数日のうちに戴冠式を執り行うから、準備をしておけと伝えろ。あとは……」
早足で歩きながら兵に的確な指示を飛ばす若き支配者を見て、シキは胸が熱くなった。人間として、また王として、エイルの成長は目を見張るばかりである。
――エイル様は良き王になられる。それは間違いがない。だが、この世界はこれからどのような歴史を作っていくのか。それは分からない。「彼ら」の世界と同じ歴史が繰り返されるとは限らないのだ……。
シキはふと立ち止まり、上空を振り仰いだ。そこには青く広い空が広がり、のどかに鳴く鳥たちがそれを横切っていく。だが彼の目に映っていたものは、その空のはるか彼方だった。そう。それは、遠い、遠い未来の――。
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