出発前夜

「あの……あ、あの、恐れながら……」

小さな声が一人の男を呼び止める。男はそれまでひたすらに、それはもうまるで機械のように廊下を歩き続けていたのだが、その声が耳に入ったので仕方なしに立ち止まった。……いや、無言のままであったから本当のところがどうだったのかは分からない。しかし少なくとも、そういう風に見えた。

身体にまとった外套は分厚く、その深い色と相まってひどく重たげな印象である。しかしそれを軽々と翻して、男は声の主を振り返った。男の予想通り、そこに立っていたのは屋敷で雇っている女中だった。

色白で、少し不健康そうに見える顔。細く、痩せすぎと言ってもいい体つき。足元を見つめる視線はおどおどとして、こちらには向けられない。

――名前はなんだったか……まあそんな事はどうでもいい。

「何の用だ」

冷たい、と自分でも思うほど、その声は冷え冷えとしている。何もわざわざ冷淡に振舞おうと思っているわけではない。そうではないが、感情を込める必要もなかろう、と思うと、自然とこういう事になる。自分では特に気にしていないが、屋敷で働く者たちにはどうやら不評であるようだった。その事を証明するかのように、女中の肩がびくっと跳ねる。冷徹と謳(うた)われる屋敷の主人を、女中が呼び止める。よほど恐ろしい事なのだろう。彼女の唇が小刻みに震えている。

――だからどうした。

怯えているうさぎを見て、哀れに思う獅子はいない。男は心を動かされる事もなく、再び口を開いた。

「用がないのなら呼び止めるな」

決して大きくはないが、張りがある声で言い放つと、男はくるりと背を向けた。彼女の何か言いたげな表情をも無視して、そのまま歩き去ろうとする。

――これでもう二度と声をかけてはくるまい。

そう思った男の予想に反して、後ろから声があがった。

「エ、エクトル様!」

一瞬の間をおき、エクトル=ランカスターは振り返った。一言も発する事なく。眉が寄せられ、見るからに不機嫌といった表情である。若い女中は両手を胸の前で握り締め、決意したように顔を上げた。

「近く、ご出陣と伺いました。私のような者が出すぎた真似とは存じますが、これをお受け取りいただきたく……」

そう言いながら、そっと差し伸べられた手には、小さな布袋が見える。エクトルはそれとは分からぬほどに首を傾げ、しばらく待ったが、女中はその姿勢のまま微動だにしない。小さく嘆息し、三歩ほど戻ると、エクトルはそれを手にした。

「何だ、これは」

受け取られた感覚が伝わり、ユーリエは驚いた。そのまま立ち去られてもおかしくはなかったからだ。しかも偉大なる主人が自分へ問いかけてくれたのは、これが初めてである。多くの使用人の中で、直接声をかけられる者は多くない。それが今は、自分一人が彼と会話しているのである。彼女の身体は熱くなった。屋敷へ働きに来て、初めて目通りした時から抱き続けた恋心だったが、側で使ってもらえるほどの容姿でもなく、役に立つほどの教養もないので、ずっと下働きであった。遠くから時折眺められるだけで嬉しく思い、頬を染めていたのである。だが、隣国との境界線を守るための戦いに出てしまうと聞けば、垣間見る事すら出来なくなる。いつ帰るかも分からない。声をかけられぬまま時間が過ぎたが、ついに今日、声をかけたのである。勇気を出してよかった。ユーリエは心からそう思った。

「私が家を出る時、母が持たせてくれたお守りなのです。袋は汚くなっていましたので、私が新しく縫いました」

「これを俺にどうしろと」

抑揚もなく、冷たく聞こえる主人の声に、ユーリエはもはや恐れを感じなかった。憧れの的である相手と二人きりで話しているという喜びや興奮が、彼女を奮い立たせていたのである。

「ほんの小さなものでございます、身につけておいていただければ光栄でございます」

「何か特別なまじないでもあるのか?」

「い、いえ、特には……ですが、その、私はずっと無事でしたから」

エクトルは胡散臭げにその袋を眺め、次に名も知らぬ女中の顔を眺めた。頬を紅潮させ、自分の顔を見ては目をそらし、きょろきょろしては、またそっと見つめたりしている。

――仕方がない。

「もらっておこう」

エクトルは袋を腰帯の間に突っ込み、短く言った。ユーリエの顔がぱっと明るくなる。

「ありがとうございます」

深々と下げた頭をあげると、主人の姿は既になかった。石畳の廊下に靴音を響かせ、エクトルは今まさに廊下の角を曲がって消え去ろうとしているとこである。ユーリエはその外套の先が完全に見えなくなるまで見届けると、思わず両手を挙げて飛び上がった。

「……やったぁ!」

イーソスは、隣国グロールと長い間領土問題で争いを重ねてきた。大国レノアに対抗して手を結ぶ事もあったが、それはその時だけの必要悪、とでも言うように、数年もすればまた両国の争いが始まる。一番の理由は、川だった。両国の国境付近には細い川が流れているのだが、その川をどちらかの兵士が、戦争目的で越えた、越えない、というのが、大方の問題点になるのである。両国ともに、相手の領土を自分のものにしようと思っているのだから、隙があれば川を越えようとする。それをどちらかが見咎めて、戦争を売るつもりなら買うぞ、となるのだった。

今回もグロールが攻め入ってきたとして、イーソス側は自分たちが正当であるとの主張を譲らなかった。グロールに言わせれば、戦争目的で越えたわけではない、言いがかりだ、というところだろう。

何にせよ、境界での争いは避けられない。イーソス王はこの時とばかりに軍を組織し、多くの騎士たちが戦いに出向く事になった。

古くからの家柄であるランカスター家の若き当主は、先ごろ師団長になったばかりである。日々の平穏な暮らしを退屈であるとは思わないが、訓練ばかりが続いていたので、エクトルは実戦で兵を動かせる事を少しばかり楽しみにしていた。

甲冑を身につけ、鏡の前に立つ。新調した鎧は磨き抜かれて美しい。彼は絵画や美術品にも造詣が深かったが、一番美しいと思うのは武具であった。以前、それを言ったところ、芸術性の欠片もない、とばかりに馬鹿にされた事がある。それ以来誰かに言う事はないが、武具には芸術性を、もっと言えば色気すら感じる、とエクトルは思うのだった。

面当てを上げる。くすんだ鏡に、固い表情が映っている。兜を取ると、長く真っ直ぐな黒髪が鎧の肩に滑り落ちる。彫りの深い顔。冷たい眼差し。刻み込まれた眉間の皺。深く息をしても、柔らかな顔には決してならない。

――どうしてお前はそういう顔なのだ。

自分でも何故なのか分からない。数年前に両親を亡くしたからか、それとも昨年、十年来の友人に裏切られたからか。いや、そうではない。この頑なな顔と性格は生来のものなのだ。幼い頃から、愛想のない子だと言われたものだ。特段、意識して恐がらせているつもりはないが、何も愛想を振りまいて、媚を売るつもりもない。エクトルとしてはごく普通に振舞っているだけなのだが、周りの人間は、大抵の場合、彼を恐れる。もしくは彼のご機嫌を伺ってへつらうか、世間話などをして茶を濁すか、である。

貴族の一員として、イーソス城での舞踏会などに出席する事もあるが、娘たちはみな遠巻きにするばかりで、結局は騎士団の仲間内で酒を酌み交わすに止まるのだった。跡継ぎの事を考えれば、結婚して子を設けるのが筋である、と、親戚は口をそろえる。だが、彼はまだ若かった。今はそんな事にかまけているより、剣の腕を磨き、戦場で戦う方がやりがいがある、と思うのである。

――しかし、今回ばかりは、な。

グロールに非はなく、自国であるイーソスの謀略によって戦争が始まった事を、エクトルは知っていたのである。

グロールの兵士が川を越えたのは、鹿を追っての事だった。鹿狩りの途中、手負いの鹿が川を越え、それを追いかけた兵士が、たまたま甲冑を身につけていたというだけの事だった。だがそれを敵兵の侵入と見て、戦争名義を正当化したのがイーソス王であった。何故エクトルが知っているかと言うと、その鹿をイーソス側へ誘い込んだのも、兵士が甲冑を着るように仕向けたのも、彼の師団の部下だったからである。数名の部下はエクトルの命により――それはつまりイーソス王の命であったわけだが――密かにグロールへ入り込み、色々と仕掛けをしてきたのである。その結果が今回の戦争に繋がっているのだと思うと、エクトルは戦いの無意味さに嘆息せざるを得なかった。

戦う事は貴族の務めである。また自分の腕を試せる重要な場でもある。いつ死ぬとも知れないが、例え死んでも、武勲を立てるのは名誉な事だ。だが、こんな正当ではない戦いの場で、誇りを持たずに死にたくはない。今回の戦争には参加したくない、とさえ思うのだが、今更戦いの無意味さを申し立てたとして、もう止まらないだろう。自分一人が処分され、別の師団長が兵を率いていくだけだ。

イーソス王はこれを機会にグロールの領地を一気に攻め取るつもりである。会議の席上でいきまく王を見ながら、そんな簡単に行くわけがあるまい、と、今日もエクトルは嘆息してきたばかりなのだった。

甲冑を脱ぎ、寝台に腰掛ける。出発が近くなると晩餐会を開く者もいると聞くが、エクトルはそんな気の効いた事をするような男ではなかった。むしろ自分の食事も早々に切り上げるような男である。考えていてもどうにもならないと分かってはいるが、一人でじっとしていると物思いに沈んでしまう。エクトルは寝台に腰掛けたまま、深い沈黙に包まれていた。

それから数日後の夜。

夕闇が部屋にそっと忍び込んでくる。湯浴みを済ませたエクトルは、いつものように自室で思案に暮れていた。まだ眠るには早すぎる。

気分転換にでもなるかと思い、普段滅多に赴かないような庭園へ足を向ける。庭園は両親の自慢であり、潰してしまうには忍びないが、手入れは庭師に任せっきりである。奥の一角には母が特に好んでいたエメルナの花園が広がっている。夜に咲く花で、月明かりに浮き立つような花弁が美しい。

夜も更けてきて、足元は暗い。規則的な間隔で置かれた飛び石を踏みながら、エクトルはゆっくりと歩いていった。と、どこかで誰かがすすり泣いているのが聞こえてきた。どうやら片隅の木陰からのようだ。

「……しくしく……」

「ユーリエは夢を見すぎなのよ。いくら好きでも、所詮は遠い世界の、空の上の人でしょう」

「分かっているわ、でも……」

「お守りを受け取っていただけただけでも感謝しなくちゃ」

――あの時の女中か。

エクトルは闇の中で一人、頷いた。

――急に動いては気づかれるな。

立ち聞きするつもりではなかったが、エクトルは動けずにいた。その間にも、二人の囁きは続いている。

「お話出来ただけでも良かったじゃない。私だったら恐くて、とてもじゃないけど……」

「あの方は恐くなんかないわ」

「そうかしら……まあいいけど、とにかくもう諦めなさい。二度と会えなくても不思議じゃないのよ」

「そんな……」

「気持ちは分かるけど、仕方ないわ。……ああもうこんな時間じゃない。私は帰るけど……」

「……」

「じゃあ、また後でね」

枝をかき分ける音がし、続いて軽い足音が徐々に遠ざかっていく。彼女らが話していた茂みは、エクトルのすぐ近くであったらしい。今はひっそりとしているが、もう一人――ユーリエとか呼ばれていた女中が――残っているはずである。どうしたものかとエクトルが思案していると、密かな泣き声が聞こえてきた。このまま立ち去ろうか、と思ったエクトルは、何を思ったかいきなり茂みに分け入った。

「すまん。聞くつもりはなかったのだが、動くに動けず、聞いてしまった」

ユーリエは息も出来ず、目を見張っている。まさかこんなところに主人が現れるとは思いもしなかったのであるから、驚くのも当然だろう。何かを言おうと思って口を開けたが、言葉が出てこない。両手を胸の前で組み合わせ、何故だか分からず震えるばかりである。ユーリエは自分の頬が紅く染まり、顔全体が熱くなるのを感じていた。エクトルの方はと言えば、こちらも固まっている。姿を現さずにそっと消えればよかったと後悔したが、今更だ。

「まだ寝るには早いので散歩でも、と思ったのだが、まさかこんなところに人がいるとは思わなかった」

「……」

「いや、何も咎めようというのではない」

ユーリエが黙ったままなので、エクトルはいつになく饒舌になっている。

「怖がらなくていい」

「……いえ、怖くはありません」

ユーリエの驚いていた表情が、微笑に変わる。

「エクトル様は恐ろしいと、その、みなの評判になっていますが、それはきっと、無口でいらっしゃるからです。私も以前は怖いと思った事がありますが、今は、もう」

そう言いながら、小さく首を振る。それから心配そうな顔で問いかけた。

「あの、私などがお聞きするような事ではないと思うのですが……今回の戦いは、長引くのでしょうか」

「分からん」

「そう、ですか……」

「だが、俺は必ず生きて帰る」

うつむいていたユーリエは、何か決意を秘めたようなその声に、もう一度顔を上げた。エクトルの顔が、いつもよりほんの少し優しく見えるのは、彼女の気のせいだろうか。

「これがあるからな」

そう言って、エクトルは腰帯の間から小さな袋を取り出してみせる。先日、ユーリエが渡したお守りだった。笑いもせずに言うので、冗談なのか本気なのか、その顔から読み取る事は出来なかった。だが、ユーリエの胸には何とも言えず嬉しい気持ちが溢れた。

「ありがとうございます」

ユーリエが頭を下げていると、つい、と長い指が彼女のあごを持ち上げた。見上げると、エクトルの顔がごく近くにある。ユーリエは息を呑んだ。端整な顔が月明かりを遮って近づき、拒む間もなく、唇をふさがれる。ほんの一瞬の事で、何がなんだか分からぬ内に、エクトルは離れた。そして、それとは分からぬほど僅かな笑みを口の端に浮かべる。

「もう下がれ」

短く言うと、体が硬直して動けずにいるユーリエに視線を流し、エクトルはくるりと背を向けて立ち去った。いつもと何ら変わらない、素っ気無い態度である。ユーリエは放心状態のまま立ち尽くし、エクトルの姿が消えると、力が抜けて地べたにへたり込んだ。

「嘘だぁ……」

小さく呟く。メルィーズの優しい月光に照らされ、エメルナのかぐわしい芳香に包まれたまま、ユーリエは放心していた。

泥沼化する第十七次イーソス=グロール戦役。その幕開けが翌朝に迫った夜の事である。

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