Legend of The Last Dragon −第二章−

双子が失意の内に北へと向かった頃、シキとエイルは街道沿いの露店を覗いていた。本格的な旅具を揃えるためである。彼らはまず、馬を手に入れなければならなかった。しかし馬は誰でもが持っているわけではない。街に入れば旅人相手に馬を売る商人もいるが、何しろ今はレノアに入る事が出来ないので、隊商などに譲ってもらえないかどうか頼むしかなさそうであった。

「すまないが……」

シキが話しかけたのは、人の良さそうな顔をした一人の商人である。そこらには隊商の商人たちがいくつも天幕を張っていたが、その男は、そういった商人の群れの一つにいた。商人たちの輪から外れたところで、道端に腰を下ろしている。特に何をするというわけでもなく、頬杖をついて他の多くの人々と同じようにレノアに入れるようになるのを待っているようだ。ジョゼーと名乗ったその男は、年のころは三十五、六といったところで、日に焼けた肌は随分と痛み、短くばさばさした髪も滅多に手入れなどしていないだろうと思われた。いかにも朴訥(ぼくとつ)といった風体だ。

「そうか、馬が欲しいのか」

「長旅になるかも知れないからな。馬がないわけにはいかないんだ」

「ま、そうだな。俺たちゃレノアが到着点だ、馬はもう当分要らねぇから、譲ってやらん事もないが……。ただそっちの子が乗れるようなちっこいのは、残念ながらいないぜ」

「俺の馬に乗せるから一頭でいい。いくらだ?」

「うーん、そうだなあ、金貨二枚と銀貨三十……いや五十ってとこかな」

「それほどいい馬なのか? 金貨二枚でいいだろう」

「高価なレノア金貨ならそれでもいいぜ。まあまずは見せてもらおうか」

シキは金貨の袋から一枚を取り出して相手に確認させた。ジョゼーはそれを手にとり、ふと金貨の表面に目を留めて眉をひそめた。溜息を吐きながらシキに金貨を突き返す。

「なんだこりゃ」

「どういう意味だ?」

「こんなの使えるかってんだよ」

「そんな事は……」

「レノアの金貨にゃあ王様の顔と名前が彫ってあるって決まってるだろうが。エイクスってなあ、いつの王様だい?」

ジョゼーの言葉に、シキははっと我に返った。エイルがくってかかろうとしているのを、必死で押しとどめる。自分の父がエイクス王であって、金貨にはその父王の名が彫ってあるのだ、などと主張されたらたまったものではない。

考えてみれば当たり前の事だ。シキは己の迂闊さを責めた。今は七八四年。金貨に彫ってあるべき王はグリッド王であり、エイクス王の名が彫りこまれた金貨が通用するはずがなかったのである。単純な事ではあるが、しかし彼らがその事に気づかなかったのも仕方のない事だった。いまだに彼らは、自分たちが時を超えたという事実を認識しきれずにいたのである。

しかしシキは慌てた様子も見せず、冷静にその場を取り繕った。相手はシキたちの違和感に気づいた様子すらない。

「すまないな、古いものを間違えて持ってきてしまったようだ。馬は要らない、邪魔をしたな」

軽く手を上げて歩き出そうとした、その背中ごしにジョゼーが声をかけた。

「兄ちゃん、ちょっと待ちなよ。……その金貨、何枚あるんだ?」

「聞いてどうするつもりだ」

「いやその金貨、誰も受け取っちゃくんないだろ?  俺が引き取ってやろうかと思ってな」

ジョゼーは、悪い人間ではないようだった。話し方はぶっきらぼうで、愛想も良くはなかったが、笑うと日焼けした顔に白い歯が目立つ。彼はちょっと肩をすくめ、悪気があって言うんじゃない、という事を仕草で示した。

「嫌なら無理にとは言わねぇよ。……実はよ、知り合いに鍛冶屋がいるんだ。奴のところへ持ってけば、炉で金貨を溶かしてくれると思ってな。そうすりゃ延べ棒にして売れるだろうさ」

「なるほどな」

「随分古い金貨みたいだけどよ、保存がいいんだな、綺麗なまんまだ。質も良いしな。それにあんた、悪い奴じゃなさそうだ」

シキの「それはどうかな」という言葉にジョゼーは声を立てて笑った。シキも一緒になって笑い、二人はまるで古い友のように肩を叩きあった。こうして彼らは馬と、現在使う事の出来る貨幣をいくらか手に入れたのである。

ジョゼーの馬は気性のよい牝馬で、おっとりとした性格だった。「素直そうだな、よろしく頼む」とシキがその首を優しく叩いてやると、鼻を鳴らして擦り寄ってきた。エイルがベルカと名づけたその馬は、一時ジョゼーが預かってくれる事になった。旅支度を整えたら戻ってくると約束し、シキたちはその場を離れた。

通常であれば、レノアの城下町に入らなければ店はないはずだった。街道に店を出す事は禁じられている。ずっと南へ行けば、街道沿いにいくつも町はあるが、レノアの城下町付近の街道に店はないはずなのだ。しかし不幸中の幸いと言うべきか、今はレノアに入れない商人たちが、街道の脇にいくつも天幕を張っている。それらを見てまわれば、大抵のものは揃ってしまいそうだった。

最初に入った店は、濃い茶に染められた分厚い布を、地面に突き刺した杭の上に乗せてあるだけの簡素な作りだった。大きな台車の上には、色とりどりの野菜や果物、干し肉などが並べられている。夫婦者がその脇で手を揉みながら客を寄せていた。

「さぁさぁ、新鮮な果物と野菜だよ、レノアじゃ取れない珍しい果物もあるから見てっておくれ!  南国はルセール特産、ピークはいかが?  ミコルもあるよ!」

「お安くしとくよ、どうだいひとつ!  試しにかじってごらん。美味いよ、このクナートは!」

威勢のいい声が頭の上から降ってきて、緑色のごつごつとしたものが勢いよく突き出される。エイルは突然現れたそれにどう対応していいかわからず、たじたじとなった。シキが前掛けをした男の手からクナートを受け取り、右腰の後ろから短剣を抜く。

「ありがたく頂こう」

言いながら器用に皮をむいていく。すると中からはつぶつぶとした黄色の果肉が現れた。それをエイルに手渡す。エイルはそれを受け取ると、思い切ってかぶりついた。果汁が滴るようなそれは、ほのかに甘い。

「どうだい、美味いだろ」

にんまりと笑う男に、エイルは黙って頷いた。

「はっはぁ、恥ずかしいか?  可愛い顔してるじゃないか、まさか女の子じゃないだろうな?」

「無礼な! 私は男だ!」

「こりゃ失礼、だぁーっはっはっは!」

亭主が下品な声をあげて笑う。エイルは唇を尖らせて顔を背けた。その仕草は、ともすれば高慢と取られそうなものだ。しかし彼の可愛らしい表情が、他人を嫌な気持ちにさせる事はなかった。

「亭主、じゃあこのクナートをいくつかもらおうか。それと干し肉と……」

シキが買い物をしている間、エイルはシキの服を握って離さなかった。普段の威勢のよさはどこへ行ったのか、じっと黙ってうつむいている。王宮での生活に慣れている少年にとって、商人たちや行きかう人々はまるで別世界の人間のように思えるのだった。城の中で会う者は、エイルの顔を見れば必ず頭を下げ、膝を折って挨拶をしたものだ。だがここでは、エイルのそんな常識はまったく通用しない。多くの場合、人々の視界にも入らないようだ。例え相手にされても、彼らはエイルを町の少年と同じように扱う。冗談を飛ばし、大声で笑い、がさつな手で自分に触ろうとさえする。エイルにはどうしても我慢がならなかった。

八百屋の隣の店は、大きな麻の袋をいくつも地面に並べていた。袋には、様々な穀物や木の実がぎっしり入っている。細かい粒のようなものあれば、茶色で細長いものもある。赤くて大きなものもあるし、紫で先の尖ったものもある。また、香料も扱っているようだった。机の上に置かれたいくつもの皿に、さらさらとした粉状のものが綺麗に山にしてある。シキはここでも買い物をする事にした。

「スクをもらえないかな。出来れば筒に入れて欲しいんだが……」

「お、兄さん、長旅かい?」

「ああ恐らくな。そうなれば、スクは欠かせない」

「シキ、スクって何だ? 何でシキはそんな事知ってるんだ?」

エイルが見上げる。シキはそれには答えず、微笑んで見せただけだった。

スクという穀物は、乾燥させて粉状にしておけば非常に長く保存できる。また、再び水分を吸うと膨らむ性質があるので、スープに混ぜて食べると、少量でも腹持ちがいいのだった。レノアではそれほど有名な穀物ではないが、旅慣れている者で、スクを知らない者はいないだろう。西方、タースク地方で一年中作られている穀物だ。

スクを木筒いっぱいに詰めてもらい、次の店を探す。旅に出るなら服も必要だ。寝袋代わりにも風除けにもなる大きな外套、砂や風から目を守るためのつばの広い帽子、暑さや寒さに強い上着などは欠かせない。そういったものを扱っている店は、今このあたりでは一軒だけのようだ。他の店とは違い、それなりに立派な店構えである。木材を積み上げて風や雨でも問題ないようにしてあり、なかなか考えられた造りになっている。

「いやぁ、締め出し食らってから長いんですよ、うちは。もう一ヶ月ほどレノアに入れるのを待ってる有様でさぁ」

と、店の主人は言う。禿げ上がった頭を撫でて、首をひねった。

「まったく、どうしたんでしょうねえ、レノアも。グリッド王はいつもならきちんとおふれを出しなさるのに、今回はまったく音沙汰なしだ」

「何があったか、誰も知らないようだな。話を聞いても、みんな首を振ってばかりだ」

「ええ、私らも何にも分かんないんでね、困っとるんですよ。ただね、時たま兵士が出入りしてるようですよ。こないだの夜……なあおい、いつだったかね」

机の後ろに座り込んでいた女に声をかける。女が肩をすくめるだけなので、主人は悪態をついたが、再び話し始めた。

「えぇと……ありゃ確か十日ほど前ですよ。兵士が数人、大きな荷物と一緒に城へ入っていくのを見たんでさぁ。ありゃあ一体何をしてたんだかねぇ……」

「レノアに、何が起こっているのかな。少なくとも……反乱などではなさそうだな?」

「ああ、そりゃないですよ、反乱が起きりゃすぐ分かりまさぁね。城壁の中はいたって静かなもんだ。でもねえ、町の人はどうしてんでしょうね。買い物だってろくに出来やしないと思うんですよ。いえね、私は思うんですけどね……」

それから後は、店主の世間話が延々と続いた。彼の想像とおしゃべりはとどまる事を知らないようだった。しまいにはシキも閉口してしまって、なんとか逃げ出したいと考えるようにまでなっていた。さっさと買い物をして店を出たいのだが、服をたたみながら、勘定をしながら、店主の話はいつまで経っても終わる気配がなかった。もはやその大半は、店の愚痴や客の噂話である。エイルは、呆れ顔を隠す事もしていなかった。うろうろしたり、店の外を眺めたりしていたが、しばらくすると我慢が出来なくなったのか、シキの服を引いた。

「シキ、もう行こう。私は飽きた」

その言葉に店主の口があんぐりと開く。シキはこれを幸いとばかりに荷物を抱えると、店主の言葉を避けるようにそそくさと店を後にした。外に出ると、既に夕闇が近づいている。人々があちらこちらで火を焚き、夕飯の準備を始めていた。

「困りましたね。これでは今から旅立つというわけにも行きませぬ」

「下らぬ話をいつまでも聞いているからだ」

「はは……。あまり金を遣いたくはないのですが、近くに宿がないか聞いて参ります」

「私も行く」

道ゆく人を捉まえて訪ねると、東へ少し行ったところに旅人の宿があると教えてくれた。今夜はそこに宿を取るしかなさそうである。

ジョゼーのところへ馬を引き取りに行くと、商人たちも夕飯の支度に追われているようだった。聞くと、ジョゼーは馬の手入れをしている、と言った。確かに、派手な布を巻いたジョゼーの頭が、馬の後ろに見え隠れしているのが見える。

「ベルカの調子はどうだ?」

「おお、シキじゃないか。戻ってくるのが遅いから、心配したよ。ベルカってこいつかい? 絶好調だよ、夜通し走ったって大丈夫だろう」

「それは有り難いな。だが今夜は『烏と木馬亭』に泊まる事にしたよ」

「ああ、それはいいな。もうすぐ夜になるし、出発は明日にしたらいい」

「ジョゼー、ここらで情報を集めるならどこがいいかな。なるべく大きな街がいいだろう?」

「そうだなあ、一番大きな街といったらやっぱりイルバだろうな。あそこはたくさんの人が集まるから、色んな話が聞けると思うぞ」

「イルバ……街道沿いの街か?」

「なんだ知らないのか? 有名な町だがなぁ。そうさ、街道を南に下っていきゃすぐ分かるよ。馬で行くなら……三日もあれば着くだろう」

「そうか、ありがとう」

小さくまとめた荷物を鞍の両側につるすと、エイルをひょいと抱き上げてベルカの背に乗せる。シキは左足を鐙(あぶみ)に乗せると、軽く身体をひるがえしてその後ろにまたがった。

「色々と助かったよ」

「いやぁ、こっちこそ思わぬ儲けが出たよ」

ジョゼーはそう言って、日に焼けた顔で笑った。旅の安全を祈るジョゼーに別れを告げ、シキはベルカの腹を軽く蹴った。

エイルは馬を操る事が出来ない。一人で馬に乗る必要性などなかったからである。たまに城の外へ行く時などは馬車であったし、武術の訓練などで練習する機会もあったが、エイルは大の苦手でさぼってばかりだったのだ。馬を操ってみたいと思わないでもないのだが、今のところはこの大きな動物に近寄る事も出来ないのだった。シキはそんなエイルを両腕の間に挟みこむようにして、ベルカを歩かせる。

「これからは王宮にいた時と違い、きっと色々な事がありますよ。ご覚悟を」

「うん、分かってる。……でもシキがいるからな、平気だ」

そう言うと、エイル=ダルク=レノア殿下はその愛らしい顔に微笑を浮かべて振り返った。王子を守る青年騎士は優しく頷いて見せる。馬は整備された広い街道を外れ、一番の宿を求めて、夕闇迫るレノアの大地を進んでいった。

イルバの町。ここは街道筋でも格段に大きな町である。人の出入りも激しいので、宿屋や酒場が乱立し、レノアの中でも一風変わった町として知られているが、何よりこの町を有名にしているのは、数多くの市場だった。

交通の要所でもあるイルバでは、市は一年中絶える事がない。扱う商品は多様で、「イルバで手に入らぬ物はない」というのが町の売り文句だ。果物、野菜、肉などの食料品や飲料などは言うまでもなく、武器や防具、服、日常雑貨、絨毯、家具、宝飾品など、ありとあらゆるものがイルバにはある。大陸一の交易都市と呼ばれる所以はここにあった。

イルバで売っているのはそれだけにとどまらない。イルバの市の中でもとりわけ有名なのは奴隷市だ。イルバでは人的資源も手に入れる事が出来るのだった。公に取引されるのは非人道的なものではなく、口入れ屋と呼ばれる奴隷商人たちが、イルバ領主の許可を得て奴隷市を開くのである。彼らはそこで、働き口と人手の仲介をする。つまり、仕事にありつけない人々には仕事を紹介し、労働力を必要としている職場には人手を供給するのである。他の地方ではあまり見る事のない、この「奴隷市」というものがイルバ最大の特色であった。もちろん、裏では許可されていない奴隷の取引も行われている。子供や性的な仕事への奴隷の供給は許されるべきではない事だが、それは公然の秘密ともいうべき存在で、領主でさえもその全てを取り締まる事は出来なかった。そういった店からの上納金が、街を支える重要な資金源である事には間違いがないのである。

街の領主はダルケスという男で、彼自身は悪人でも何でもなかった。むしろ彼は良心的な口入れ屋であり、イルバを発展させた立て役者だった。若い内から、奴隷の需要と供給に関する問題に敏感で、当時未発達だった小さな町の領主になってからというもの、そういった問題に対して精力的に働いた。彼は町にいくつも丸屋根の建物を作らせた。その個性的な建築物は全て奴隷市場として使われ、イルバはすぐに近辺では知らぬ者のいない町になった。やがて多くの労働力が集まるようになり、自然と奴隷市は増加していく事になる。街のどこに行っても奴隷市場があるというような、大きな都市にまで発展したのも、領主ダルケスの功績によるところが大きいのだった。レノアへの税金も、イルバはその多くを人的資源で賄っている。

シキとエイルがこの町に姿を現したのは、雨の午後だった。ここのところしばらく続いていた雨が、その日も朝から降っていた。太陽神ハーディスは厚い雲の向こうから顔を現さず、雨の神レーヴェが一日中、その涙で緑の大地を濡らしている。石を敷き詰めた街道は土がぬかるむという事もないので、馬は順調に歩いていたが、上に乗っている二人はすっかり閉口していた。大きな町らしき景観が水煙の向こうに見え始めると、エイルがこれみよがしに寒いと呟く。

街道に立てられた看板には、「まもなくイルバ」と彫りつけてある。シキは、顔に当たる雨に目を細めながらそれを確認すると、ベルカを操って町へと向かった。降りしきるレーヴェの雫が二人の髪や服を濡らし、絶え間なく雫が滴り落ちていく。すっかり色が変わってしまっている布袋に雨が当たって跳ね、その不規則な音がまた二人を憂鬱にさせるのだった。シキは自分の大きな外套をエイルにかぶせるようにしていたが、それでも降りしきる雨に、少年の髪や服は濡れてしまう。当然、シキの方はずぶ濡れであった。しかし彼は、そんな事を気に留める事もなく馬を進めていった。

町に近づくと、いくつもの大きな丸屋根が目に飛び込んでくる。雨の日にも関わらず多くの人々が労働力を買い求めて、また仕事を探し求めて行き来していた。

町の入り口で馬を下り、預け小屋の親父に馬を引き渡す。預け小屋には馬をつなぐための杭があり、それぞれに番号がついている。街を出る時には馬をつないだ杭と同じ番号の札を渡せば馬を返してくれる仕組みだ。もちろん、いくらかの手数料は取られるのであるが。

馬を預けるとすぐに、シキとエイルは手近にあった宿屋に飛び込んだ。服を濡らしていた雫を払っていると、奥から宿屋のおかみさんが顔を出す。

「あらあらお客さん、大変だったね。着いたばっかりかい?」

「ああそうだ。レノアから来たんだが、今日は朝からレーヴェに気に入られっぱなしで……」

「すっかり濡れねずみじゃないか。ほら! こっち来て乾かしなよ」

大きな声と人懐こい笑顔に、人の良さそうな性格が見て取れる。大きく手招きされて、エイルは暖炉の前に駆け寄った。

「ぐっしょりだね、こりゃ早く脱いだ方がいいよ、ほら、脱いだ脱いだ!」

おかみさんはこともなげにエイルを抱きかかえるようにして、服を脱がせ始める。

「な、何をする! 無礼者!」

「? ……なんだい、随分な口を利くじゃないか。子供は子供らしくしてりゃいいのさ」

おかみさんはそう言うと、エイルの服を強引に脱がせて暖炉の前にかざす。すぐに店の奥から乾いた服を持って来て、エイルに押し付けるように渡した。

「当分、これでも着てなよ。お気に召すかわかんないけどね」

そう言うと、大きな口を開けて笑う。シキもつられて笑ってしまった。エイル一人が納得いかない表情だ。それを見て、おかみさんは再び大声で笑い出してしまった。それへ向かって、シキは濡れた前髪をかきあげながら頼んだ。

「すまないが、部屋を一部屋貸してもらえないか」

「ああいいよ、小さな部屋でよけりゃすぐ入れるけど。どのくらいいるんだい?」

「そうだな……三、四日ほど」

「あいよ! じゃ、濡れた服を着替えてから降りといで。暖かいスープでも作ってあげるよ」

「それは有り難いな」

心底ほっとした顔のシキに比べ、エイルは仏頂面のままだ。着替えながら、小さな声で呟く。エイルは独り言のつもりだったが、二人には聞こえていたらしい。

「なんでシキは脱がされないんだ……」

突拍子もない言葉に、シキは呆気にとられている。おかみさんは笑いがこらえきれない。大柄な身体を縮めて我慢していたが、結局、どうにもならずに吹き出してしまう。口をふさいだ手から、くっくっくと笑い声が漏れる。その内、諦めて大声で笑い出した。笑えば笑うほど少年の気分を害すると分かっていても、その小生意気な態度に笑いをかみ殺す事が出来ないのだった。

「……あっはっはっはっは!」

思わず目に浮かんでしまった涙を拭き拭き、言って聞かせる。

「あたしがこのお兄さんを脱がせようったって無理な話だろう、坊や? 無茶言うんじゃないよ。第一、男の服なんて脱がせられるもんかね!」

「私だって男だ!」

「あーっはっはぁ、こりゃあいいね! 男たって、あんたはまだ子供だろ。……まったく、面白い子だよ。さあさあ、とっとと上に行って濡れた荷物を乾かしてきな。二階の一番奥の部屋だよ」

相手にしてもらえないので、エイルにしてみれば憤慨の極みである。シキはといえば、やはり笑いを必死でかみ殺している。顔を背け、口に手をあてて堪えている様子に、エイルは尚更腹を立てた。頬を膨らませ、唇を噛んで、階段を駆け上がっていく。それを見ていたおかみさんは、笑い疲れた様子でシキに話しかけた。

「随分とこまっしゃくれた坊やだねぇ」

「ちょっとな、育ちのいい家の子なんだ」

「なるほどね。どんな事情があんのか知らないけど、あれじゃ世の中渡っていけないよ。世間知らずってな、あの子のためにあるような言葉だねえ」

しみじみとした言葉に、シキは苦笑するしかなかった。夕食も頼むと言って、階段を上がっていく。その後姿を眺めながら、おかみさんはにんまりと笑う。

「脱がせられるもんなら、脱がしてみたかったね」

それから慌てて首を振り、自分で自分を笑い飛ばすとスープを作りにかかった。

その夜、シキは早速街の探索に出た。エイルは夕食後もシキから離れずにいたのだが、疲れが溜まっていたのか、ふと気づくと椅子に座ったまま眠っていた。それを起こさぬように寝台に寝かせ、シキはようよう宿を抜け出してきたのである。

普通の町なら日が沈んでしまえば静かになる。人々は「ハーディスとメルィーズが司る時間」を生きているからだ。日の出とともに起き、月の出とともに寝る。それが当然の生活であった。また、夜は火を灯さねば活動出来ないので手間暇がかかる。それも、夜の町が静かな理由の一つだ。

魔術師と呼ばれる人々は大抵の町で、便利屋として働いている。彼らの術法は、ちょっとした労働の手間を省く。例えば、薪を使って火を焚くのも彼らに頼めばずっと早いし、雨水から不純物を取り除く事も、彼らにとっては何でもない事だ。彼らはそういう日常の雑事を引き受ける事で生活していた。当然、簡単な事であれば安価だし、難しい事には高額の謝礼を支払う。

何もない状態で火を灯し続けるというのは非常に高度な術法であるらしい。魔術師たちに火を灯し続けてもらうのには高い金を払わねばならないし、もちろん、一番中自分たちで油を燃やし続けるのにも、大金がかかってしまう。となると、高い金を払ってまで夜中起きているのは余程の金持ちだけである。大抵の町の人々にとっては、「日が沈んだら寝る」というのが常識なのだった。

しかし、旅人の交通が激しいイルバの街は、いつまでもたっても騒がしい。火を灯すのに高い金を払っても、客がより多い金を落としていくのだから、夜の間も店を開ける方がいい。仕事を求める人々が街に溢れているのだから、人手が足りないという事もない。イルバは毎晩のように盛況だ。もちろん今夜も、イルバの人通りが絶える事はなかった。いくつも並んだ店の窓から明かりと人々の声が漏れている。市場もそのいくつかは夜通し開かれていて、人々の出入りも十分にある。酒場などの人が集まる場所も、そのほとんどが朝まで営業しているのだった。

やたらと多い酒場の内、シキは特に大きな一つを選んだ。「デルファーナの店」と書いてある看板の下、大きな板扉を開けて中へ入る。店は半分地下に埋まっているような造りになっていた。石造りの建物は、外から見る分には周りとさして違いはなさそうに見えたのだが、中に入ると、床が低く作られている分だけ天井が高く感じられた。

既に夜半過ぎだというのに、この店も他の店と同じく満員御礼といったところだ。そこここで人々が杯を交わしている。シキはその中をかき分け、店の奥へ向かった。店主は一目でそれと分かる、恰幅のいい中年だ。ひげを生やした仏頂面で杯を磨いている。シキが銅貨を数枚置くと、低い声で「よう」と言った。

「レオニー」

シキも短く酒を注文する。店主は、細長いガラスの杯に青く澄んだ酒を注いだ。シキは透明な杯など見た事もなかったので戸惑ったが、どうやら店主のご自慢のようである。

「綺麗なもんだろう。そう手に入るもんじゃねぇ。……あんた、見ねえ顔だな。イルバは初めてかい?」

「ああ。夕刻、着いたばかりだ。ここらは不慣れなので、話を聞きたいが」

「ふん」

愛想の良くない店主である。だがしかし初めての客だ、こんなものだろう。シキは肩をすくめると、少し背の高い木の椅子に腰掛けて店を見まわした。店内には多くの人が溢れていたが、一段高くなっているこのあたりはそれほどでもない。置いてある背の高い椅子の内、半分程度が埋まっているに過ぎなかった。一番端はどう見ても酔っ払って寝ているとしか思えないような男で、椅子にも座っているのかずり落ちているのか、はっきりしない。泥酔しているようで、真っ赤な顔に無造作な金髪が散らばっていた。まくった袖から見える腕は太く、古い傷痕がいくつもある。時折唸るような声を上げているところを見ると、いびきをかいて寝ているのだろう。

そばに座っている二人組は傭兵だ。身なりからそれとすぐ分かる。身につけた革の鎧にイルバの紋章が入っているから、領主ダルケスの私兵なのだろう。腰に挿しているのは飾り気のない、よく使い込まれた護身用の剣だ。鍛えられた体躯は若く、力が溢れているように見える。彼らはいかにもいい気分といった雰囲気で、大きな声を上げて笑ったりするかと思えば、また低い声で語り合ったりもしている。仲のいい戦友といったところだろう。長い黒髪の方はどちらかというと無口で、短い金髪が一人でしゃべっているといった感じだった。

イルバの傭兵たちが席を立った頃には随分と夜も更けていたが、それでも店内の机の大部分はまだ埋まっていて、あちらこちらで歌や笑い声が湧きあがっていた。酒場の夜はますます佳境、といったところだろうか。シキは観察を続けていたが、情報をもたらしてくれそうな者はあまり見当たらなかった。しかし夜は長い。シキは相変わらず黙ったまま、杯を傾けている。と、肌をあらわにした女が寄ってきた。

「こんな夜に、一人で飲んでるなんて、寂しいじゃない」

「そうだな」

「私でよければお相手するわよ」

「相手?」

「あら、決まってるじゃない? ねえ、随分立派な剣ね。旅の剣士ってとこかしら」

「女と遊んでいる暇はないんだ」

端的に言っただけのつもりだったが、女は汚い言葉を吐き捨てると、シキの座る椅子の足を蹴飛ばして去っていった。

――馬鹿にしたわけじゃなかったんだが……。

独りごちて、杯の中身を空ける。並びの席に、新たな客が増えていた。戦士三人が吟遊詩人を囲むように座り、歌を聴いている。吟遊詩人の中でもセラベルと呼ばれる、歌専門の詩人のようだ。戦士たちの冒険を即興歌にしては誉めそやされている。シキは上の空で聞きながら、「たいした歌でもないな」と考えていた。しかしその歌声に周りの客も寄ってきて、セラベルはいよいよ調子に乗った。彼らがあまりに騒ぐので、シキはだんだんと追いやられ、気づくと端の方に座る羽目になっていた。泥酔している酔っ払いは、シキが席についた頃と同じ姿勢のままだ。相変わらずいびきをかきながら、机に突っ伏している。溜息を吐きながら、その隣の椅子に腰掛けた。

「この街で一番の情報屋といったら誰だい?」

店主は黙っている。シキは机に小さな銀貨を数枚置いてさらに言った。

「知りたいことがあるんだ。良かったら誰か紹介してくれないか」

店主は銀貨を素早く取ると、あごで隣を指し示した。シキが横を見ると、酔っ払っていたはずの男が起きあがり、頭をかいている。

「なんだ兄ちゃん、俺に用かい」

「情報屋だったのか?」

「ラグリアードだ。ラグルでいいぜ。よろしくな兄ちゃん」

ラグルは、今の今まで酔っ払って寝ていたとは到底思えないような口調で話し出した。赤ら顔はそのままだが、酔っているような様子はまるで感じない。シキは驚きを抑えて答えた。

「俺は旅行者なんだが……最近このあたりで何か変わった事はないか」

「はっ、そういうのは吟遊詩人に聞きなよ。ほらちょうどいい、そこで歌ってるじゃねえか」

「誇張された話が聞きたいわけじゃない。俺が知りたいのは正確な情報だ」

「ふぅん、情報ねえ……」

ラグルはやる気もなさそうに頭をかいていたが、その目が店主に行く。シキはすぐに納得した。

「何かおごるよ」

「そうかい? 悪いね。じゃ、あんたと同じのでいいよ」

「店主、レオニーをラグルに」

「あいよ」

店主がまるで分かっていたかのように、シキのものと同じ、透明なガラス杯を差し出した。ラグルは青く透き通った酒をちょいちょいっとなめる。

「イルバは初めてだと言ってたな、色男。旅をしてるんだって? どこから来たんだ?」

シキと店主が交わした短い会話も聞き逃してはいないらしい。やる気のなさそうな態度だが抜け目のない男のようだ。ぼさぼさの金髪は艶がなく、どうひいき目に見ても清潔ではない。綿の上着もしわだらけのものを着ている。しかしシキを見る目つきには、自分の客を見定めようとする鋭さがあった。

「レノアからだ。ちょいと事情があってな。人探しをしてるんだ」

「なんだ、欲しい情報ってのぁその事かよ。名前は? どこにいるのかとか見当はついてんのか」

「いや、まったく。優秀な魔術師を探しているというだけだ」

「なんだなんだおい、随分漠然としてやがんな」

「まぁ、そうだな。何の当てもない旅だ。イルバなら色々な噂が聞けるだろうと思って来たんだ。大陸一の魔術師と言ったらラグルは誰だと思う?」

「さあなぁ……。一番ってのを、誰が決めるのかによるな。……どうでもいいが、その『大陸一の魔術師』なんかに何の用なんだ」

「まあ、ちょっとな」

「ふん。強力な魔術を使える魔術師となると、そう簡単にはな……」

口ごもりながら杯を傾けるラグルの様子は、何か隠しているようにも思える。求める情報がそう簡単に手に入るとは思えなかったが、別の事を聞けるかもしれない。何しろ旅には出たが、行く当てもない。どんな些細な事でも、尋ねてみる価値はあるだろう。シキは言い方を変え、いくつかの事を聞いたが、そのどれに対しても明瞭な答えは返ってこなかった。お互いに探り合う状態がしばらく続く。他愛もない話やくだらない噂話を繰り返している内に、シキにはある事が分かってきた。ラグルに何を聞いても、うまく答えをはぐらかしながら、時折店主に目配せをしているのである。よく観察していると、その度に店主が頷いたりひげを触ったりする。どうやら何かの合図のようだ。

「こう聞いていると、イルバには何でもあるようだ。手に入らないものはない、というのは本当なんだな」

シキが感心しきったような顔でそう言うと、ラグルはにやりと笑う。

「ま、金さえ出しゃな」

――なるほど、そういう事か。俺が鈍かったのだな。

ラグルは暗に、金を出さねば何も話せない、とほのめかしているのだ。シキは小さく頷くと、相手の調子に合わせて低く囁いた。

「どうせ手に入れるならとびきりのものがいい。他では手に入らないような、一級品だ。そうだろう?」

「そういう奴もいるだろうな」

ラグルの目がかすかに光った。彼はまたも頭をぼりぼりとやっている。店主は別の客の相手をしながら、あごひげを引っ張っている。隅の席で起きている事など、素知らぬ顔だ。

「どうしても必要なんだ」

探るような目つきで睨むラグルに、駄目押しとばかりに銀貨を握らせる。それに素早く目を走らせ、ラグルは杯を空けた。そしてにやりと笑う。

「イルバで手に入らねぇ物はねえよ」

それとなく店主がこちらへやって来る。ラグルと視線を交わすと、店主は低い声で言った。

「奥に行きな」

「案内するぜ、こっちだ」

ラグルが席を立つ。さっきまでどう見ても泥酔しているようだったのに、その足取りはまったくそれを感じさせなかった。酔っ払った人々の間を素早くすり抜けながら、音も立てずに歩いていく。

――どうやら、やり方を間違えたな。

シキは自分の予想が半分当たり、半分外れた事を確信した。当たった半分は、イルバでは金を出しさえすれば何でも手に入るという事。外れた半分は、手に入るのが欲しい情報ではなく、恐らく闇市の情報である事。情報を得ようと銀貨を握らせ、遠まわしな言葉を使ったのが裏目に出たのか、闇市の情報を欲しがる上客と判断されたようだ。

イルバで一日に行われている市の数は数え切れないほどである。中には闇市と呼ばれる違法の市も多い。連れて行かれる先には、商品や市場の詳しい情報を売る商人がいるのだろう。

欲しいものが得られない事を知って、シキは肩を落とした。ここでは魔術者に関する情報を手に入れる事は出来ないだろう。余計な金を使ってしまっただけであった。

――途中で気づいた時に手を引けばよかったかも知れん。面倒な事にならなければいいが。

ラグルに案内されて店の奥に入ると、一人の女が小さな机に向かっていた。長く細いパイプを加え、煙をくゆらせている。複雑に結われた黒髪に、顎のとがった顔。細い身体にはぴったりとした服をまとい、露出させた足は美しく組まれている。なかなか魅力的な体つきであったが、その双眸(そうぼう)は獲物を睨む蛇のようにきつい。シキはまとわりつくような視線から逃げるように目をそらした。

「珍しい商品が欲しいって?」

煙の向こうから、なまめかしい声と舐めるような目つきを投げかける。シキはそれを無視して、どうやって抜け出すか考えを巡らせた。女がにやりと笑う。机に頬杖をつき、煙を吐き出した。細い目が、より細められる。

「ふふ、随分といい男ね。……どんな物がお望み?」

「特に目当てがあるわけじゃない」

「あらそう。じゃあ市場へ来る方がいいわね。本当は情報料がいるんだけど……いいわ、あんたなら教えてあげる。明日の夜、もう一度ここへ、デルファーナの店へ来て」

「ここでやるのか」

「……まあ、そうとも言えるわ。来れば分かるわよ。間違っても口外しないでね。もし情報が漏れたら、お尋ね者として、あんたの似顔絵が町中の酒場に貼り出される事になるわ」

「分かっている」

シキの言葉は気にも留めず、女は言葉を続けた。

「素晴らしい商品が世界中から届いてるわよ。今回は子供奴隷も扱うし」

「子供? 取り締まられるだろうに」

「あんたが言わなきゃ大丈夫よ、ふふ。うちには腕っ節の強いのが多くいるしね」

そう言うと、もう一度白い煙を吐き出し、にぃっと笑う。どうやらラグルや店主より、こちらの方が手に負えなそうだ。

「情報料の代わりと言っちゃ何だけど……ちょっと来て」

シキは油断なく一、二歩進み出た。女が立ち上がり、視線をひたとシキに据えたまま、ゆらゆらと煙を流して寄ってくる。その瞬間、逃げ出したくなるような悪寒がシキの背筋に走った。狭い部屋全体に、香の煙が満ちている。その煙と女から立ちのぼる香気で、頭がくらくらする。女はシキの目の前まで来るとパイプを机に置き、青白い指でそっとシキの腕に触れた。そしてゆっくりと指をにじらせる。彼女の細い指は蛇にも似て、シキの逞しい腕にまとわりついた。這い登ってくる指とともに、嫌悪感も伝わってくる。

「よせ」

言葉と同時に女の手を軽く振り払う。女は目を細め、すぐにまた寄りかかるようにしてシキに近づいた。両腕を上げてシキの首に絡みつこうとする。

「そんなに嫌わなくてもいいじゃない? あんた、本当にいい男ね……気に入ったわ」

女の両手がシキの首にかかった瞬間、シキの左腰で小さな硬い音がした。女は凍りついたようにその動きを止める。シキの左手が、長剣の柄を握っていた。女は慌てて飛び退り、指を鳴らす。すぐに部屋の扉を開けて大男が入ってきた。

「剣を取り上げな!」

先ほどまでの甘ったるい声とは打って変わった、鋭い口調で男に命じる。護衛兵が即座に飛び掛かった。それを軽い身のこなしでよけると、シキは右腰の後ろから短剣を抜き、相手の懐に飛び込んだ。大柄な相手はその素早い動きについていけず、あごの真下から短剣を突きつけられて身動き出来なくなる。いきり立って腕を上げようとしたが、力を入れようとした瞬間、あごに短剣の先が食い込んだ。傷から血が滲み、男の顔から血の気が引く。

「左手一本でも長剣は抜ける。……続けるか?」

護衛兵は小刻みに首を振り、降伏を認めた。シキはゆっくりとした動作で短剣を下ろし、身体を引く。左手は油断なく、長剣の柄にかかったままである。女が部屋の隅で悔しそうに唇を噛んでいるのに目もくれず、シキは悠然と部屋を出て行った。

雲が朱に染まり、美しい朝焼けが空に広がっていた。夜が明けかかっている。見る間に明るくなっていくだろう。シキは自然と早足になった。もしエイルが目覚めていれば、宿屋であの可愛らしい頬を膨らませているに違いない。

宿まではそれほど遠くなかったが、不慣れな道ゆえに迷ってしまったようだった。何とか宿へ続く大通りを見つけた時には既に夜が明けきっていて、シキは小走りで道を急いでいた。酒場を出た時には少なかった人通りも、徐々に増えてきている。大通りには朝市がたてられ、人々が行きかっている。宿屋までもう少しというところまで来た時、角から突然何かが飛び出してきた。

「いってぇ!」

ぶつかって倒れたのは、まだ声も高い少年で、小さなつばの帽子をかぶりなおして立ち上がると、服についた土をはたいた。

「いやぁ、すんませんでした! よく見てなくって……へへ」

うつむいて照れくさそうに言うと、少年はそそくさと立ち去ろうとする。その腕を、シキが素早く掴んだ。

「少年、ぶつかったのは俺も悪かった。だが財布は返してもらおうか」

「え、な、何言って……」

うろたえる少年の腕を掴み、シキは真顔で詰め寄った。そのまま何も言わずに、少年が服に突っ込んでいる手を引っ張り出そうとする。少年は最初の内こそ抗っていたが、シキの力に敵うはずもなく、しぶしぶ右手を出した。シキの財布が握られている。

「巧いもんだな。うっかりしていたら気づかなかったかもしれん。さあ返せ」

「ちぇー……」

舌打ちしつつ、少年は財布を渡そうとした。が、シキのふいをついて身をひるがえし、走り出す。もちろんシキは慌てもせず、すぐに追いついて少年の腕をひねり上げた。少年の小さな身体は軽く、一瞬足が浮く。

「随分と楽しい事をやってくれるじゃないか」

「痛ぇッ! 離せよ、離せってば! いってぇよぉ!」

「離せばまた逃げるだろう」

「冗談、もう逃げねぇよ。いって……そ、そうだ、いい事教えてやるよ。今夜、デルファーナの酒場で闇市が、奴隷市があるんだぜ」

「知ってるよ」

「うっ……。じゃ、じゃあさっ、それに同じ顔の子供が二人出るのは知ってるかよ?」

「同じ顔?」

必死で言った言葉は、少年の予想以上にシキの注意をひいた。今まではちょっとからかうような顔つきだったシキの表情が一変したのだ。少年は、その変化を見逃さなかった。重ねて、早口に言い立てる。

「あぁそうさ、同じだったよ。まったく同じ顔だぜ、おいら見たんだから確かだよ! なぁ、離してくれよ、財布も返すし、もういいだろう」

「離してはやるが、もう少し話がある。逃げずに聞くか?」

「聞く、聞くよ」

「次に逃げたら……」

「だから、もう逃げねぇって! ……とにかく離してくれよぉ」

少年は少々泣き声になってきた。シキが腕を離すと、肩を押さえて恨めしげに見上げる。シキは視線にこめられた意図を無視して問いただした。

「その、同じ顔の子供、どこで見た? 何故お前が見られたんだ?」

「知り合いが、奴隷たちの世話してるんだよ。今回は子供ばっかだし、おいらも手伝わされてんだ」

――まさか、彼らなんだろうか。

レノアで別れた双子は、そのままサナミィへ帰ると言った。イルバはレノアから見れば南。北のサナミィへ帰ったはずのクリフとクレオがイルバにいるわけがない。しかし同じ顔の兄弟など、他にいるとも思えない。シキは今一度、少年に確かめた。

「本当に、同じ顔なのか? よく似ているという事では」

「似てるんじゃないよ。そっくり同じさ! 男の子と女の子で……あ、だから違うんだけど、いやあの、とにかく後はみんな同じさ。髪や瞳の色も、声までそっくりだったよ」

「……」

「なぁ、おいらもう行っていいかい? 金持って帰んないと親父にどやされるんだ」

「また掏(す)るのか?」

「他に稼ぎようがねえもん。さもなきゃ親父に売り飛ばされちまわぁ」

「そうか……」

布袋から貨幣を取り出し、少年に手渡す。少年は大きな目を見開いた。その口から、思わず溜息が漏れる。

「ぎ、銀貨、銀貨じゃんか……! も、もらっていいのかよ」

「ただでやるとは言っていない。お前の腕を買ったんだ」

少年はその声も聞こえなかったのか、手の上の銀貨をじっと見つめている。こんな大金は生まれて初めてだ。普段使うのは銅貨ばかり。小さな銀貨を使った事はある。けれどその十倍の価値がある大きな銀貨となると、触った事はおろか、見た事すらない。これがあれば一ヶ月分の食費にもなる。緊張して手に汗が滲む。鼓動が大きく、早くなる。しばらくの後、少年ははっと顔を上げた。

「おいらの腕を買うってどういう事さ?」

「知り合いが奴隷の世話をしてると言ったな。じゃあ奴隷を入れている部屋の鍵も持っているだろう」

「ああ、いつも腰にぶらさげてるよ」

「その中から、さっき言った二人が入っている部屋の鍵を持って来られないか?」

「えっ……」

少年は一瞬、絶句した。それから、口の中でぶつぶつ言いながら腕を組んで歩き回る。「でもそれは」「うーんと」「いや、やっぱり」などと言いながら、しばらくうろうろとしていたが、ようやく最後にこう言った。

「あいつが毎日飲みに行く店は知ってっから、酔って出てきた時に取れば……うん、出来ると思うよ。……でもさぁ」

「取ってきたら、銀貨もう一枚」

「やる」

即答してから、しまったぁ……という顔でシキを見上げる。シキは笑って「頼むぞ」と言った。少年は肩をすくめて、苦笑する。帽子をかぶりなおすと、シキの宿を確認してから去っていった。

部屋は薄暗く、湿っぽい匂いがした。土はぬかるんでいて冷たく、裸足なのがとても辛い。左右の足を交互にさすってはいたが、いつまで経っても温まらなかった。部屋には小さな椅子が一脚置いてあったが、それには妹を腰掛けさせていたので、兄はもうずっと長い間立ちっぱなしだ。べたべたとしている土の床に座る気には、到底なれない。部屋の壁は三面が煉瓦で、残る一面が鋼の格子だ。顔を出す事も出来ない幅で埋め込まれている鋼の棒。外を覗くと、暗く狭い廊下を隔てた向かいにも同じような部屋があり、小さな子供が壁に寄りかかっているのが見えた。

「ねえ……いつになったらここから出られるのかな」

妹が、これまでに幾度もした質問を繰り返す。兄も、同じ答えを返すしかなかった。

「そんなの……分かんないよ」

彼らは、それほどひどい取り扱いを受けたわけではなかった。むしろ子供たちは、労働力として扱われる奴隷たちに比べれば、ずっと良い扱いだったと言わなければならない。しかし、今までの生活とは比べるべくもない。言うまでもなく、彼らは売られる立場になった事がなかったのだ。

子供たちは恐怖に怯えながら、ただ何かが起こるのを待つばかりだった。はしばみ色の瞳が、他の子の瞳と同様に揺れている。時間は無駄に経過していき、言い知れない不安が子供たちの上に重くのしかかっていった。

突然、長い廊下の突き当たりにある、重い鉄の扉が音を立てた。不安に駆られた多くの瞳が吸い寄せられる。姿を現したのは背中の曲がった男だったが、扉の向こうが明るいせいで表情は分からない。男は扉を半分ほど開け放したまま、のそのそと廊下を歩いてくる。子供たちの緊張が高まる。唾を飲み込んだ音がやけに大きい気がする。心臓の音が、男の足音と相まって響く。

男は一番奥の牢屋まで来ると、格子越しに手を突っ込んだ。不恰好な手が、袋から取り出した硬そうなパンを握っている。

「ほれ、これでも食え」

牢の中の兄妹はしばらく顔を見合わせ、一人が小さく頷くと、もう一人が進み出てそれを受け取った。おずおずと礼を言って、頭を下げる。

「ど、どうもありがとう」

「言われる筋合いじゃねぇ。言われた仕事やってんだけだ。夜まで大人しくしとれ」

「あの……」

「あんだ?」

「……俺たち、これからどうなるの?」

「ああ、心配だか。売られんだよ、すげえ金持ちにな。きっと可愛がられるさぁ。ええ服着せられて、ええもん食えるさな。ま、おいらは頼まれたってごめんだがなぁ、ふぇっふぇっふぇっ」

気持ちの悪い、掠れた声で笑うと、男は隣の牢へ行ってしまった。そして同じようにパンを格子に突っ込んでいく。やがて全ての牢屋に粗末な食事を届け終えると、男は腰の鍵束をがちゃつかせながら去っていった。外の明かりが差し込んでいた廊下は、男が鉄の扉を閉めると共に、再び薄暗くなる。子供たちの緊張は解けたが、扉の閉まる音にいくつもの溜息が重なった。一番奥の牢の中では、同じ顔の兄妹が、他の全ての子供たちと同じように悲嘆に暮れていた。

デルファーナの酒場の一番奥には扉があり、大きな錠前がかけられていた。主人に合い言葉を言えば案内されるという仕掛けだが、錠前を開けてもらうためにはもう一つの難所がある。リンのいる小部屋である。彼女の許しがなければ扉の内へ入るわけにはいかない。「デルファーナの蛇」と呼ばれる女は、その細い目で客を眺める。「奥」へ入る資格があるかどうか、客の品定めは彼女の仕事だった。

資格ありと認められた人間はようやく扉に手をかける事が許され、地下へと続く廊下に出る事が出来る。廊下には油の燃える臭いが漂い、先へ進めば酒場の喧騒も遠くなっていく。徐々に下っていく坂道は何度も曲がりくねって客を導く。「一体どれほど歩いたのだろうか」と心配になるほど長い間、客はその静かな廊下を歩いていくのだ。やがて、その目に分厚い金属製の扉が映る。それこそ、選ばれた客のみが辿りつける「市」への入り口だった。

扉に鍵はかかっていない。しかしそれを開けるのは一筋縄ではいかなかった。その厚みと重みが、何よりの障害となるからだ。客を案内してきた護衛兵が渾身の力を込めて扉を引く。すると、人々のざわめきと杯や食器がぶつかり合う音が耳に飛び込んで来る。

部屋はさほど広くはない。低い天井は壁から続く煉瓦造りで、ところどころ焦げたような跡がある。丸い部屋を囲んでいる壁にはいくつかの窪みがあり、それらはアルコーブと呼ばれていた。部屋の明かりはアルコーブの中まで照らさない。机に置かれた小さな蝋燭(ろうそく)が、そこに座る人々の影を壁に映し出していた。部屋中に広がる煙草の煙は、明るいはずの室内を煙らせて視界を遮り、あちこちで焚かれている香の煙が鼻につく。

乱雑に置かれた机や椅子。男たちがその大半を埋めて座っている。彼らは肌の色も、瞳や髪の色もまちまちだったが、共通しているのはその雰囲気だった。昼間の陽光の元ではどんなに正直そうに見える事だろう。しかし夜中のこの場所では、どう親切に見ても、善良な商人には見えなかった。彼らはひそひそと低い声で商談を取り交わし、油断のない目をあたりに配っている。強欲な高利貸し、暴利を貪(むさぼ)る悪徳商人、多くの奴隷を酷使する大地主などなど、まっとうな生活をしている者はここにはいない。身につけているものはどれも高級そうなものばかりで、大抵は横に奴隷をはべらせていた。ひどい者になると、奴隷の首にひもをくくっている者までが平然と座っている。しかし誰もそんな事を気にも留めない。ここは人道という言葉が存在しない地獄だった。

壁のアルコーブに身を沈めている者たちが、更に怪しげな空気を作り出している。大抵は豪奢な色とりどりの服を着ていて、大きなマントを身にまとっている。宝石を縫いつけた仮面などで、顔の半分以上を覆っている者も多い。彼らは暗く沈んだ影の奥から目を光らせている。顔を知られてはならない身分の者たち。側仕えの奴隷がアルコーブを出入りし、食べ物や酒の注がれた杯を運んでいる。

机や椅子はきちんと整列されておらず、人々は好き勝手に陣取っていた。その隙間を縫うように奴隷が忙しく立ち働いている。部屋の奥の方には丸い台が設置されていた。今ちょうど浅黒い肌の男が壇上に上がってきたところである。男が指を鳴らすと、台の奥の通路から肌もあらわな二人の女性が現れた。彼女たちが台の上で踊りだすと、その手で鳴らされる鈴つきの太鼓が派手な音を立てた。客がその音で台を注視すると、待っていたかのように踊り子たちはひっこみ、司会の男が台の中央で口上を始めた。

「続いて参りましょう。次の商品でございます。皆様もご存知でしょう、伝説の狂王と名高いレガリアル二世。彼が使っていたとされる金杯でございます」

言い終わると、先ほどの踊り子が赤い布に包まれた商品を捧げて壇上に上がる。わざとらしくもうやうやしい様子で布を取り除くと、客の間から溜息と賞賛の声が漏れた。金で作られた杯の表面には大粒の宝石がいくつも埋め込まれ、燦然(さんぜん)と光り輝いている。客の中には壇のそばへ寄ってよく見ようとする者もいたが、大柄な護衛兵に押し留められる。

「どうぞ」

司会が言うと同時に部屋のあちこちから檄(げき)が飛んだ。イルバの町で行われる通常の競りとはまったく違う形式の、闇競りと呼ばれるやり方である。通常、競りというのはごく静かに行われる。人々は黙って、決められた仕草を示すだけだった。しかしここではそんな上品な取り決めはない。彼らは口々に金貨の枚数を言い合い、叫び合った。アルコーブの中の者は黙ってその様子を見物し、彼らの代表となる者が台の近くで戦うのが通例だった。声は少しずつ減ってゆき、最後は数人の戦いになる。レガリアル二世の金杯は、右隅の机に座っている男が競り落としたようだ。最後まで粘っていた太りすぎの商人は、舌打ちをして背を向ける。

「繰り返しますが、商品はどれも明晩のお引き渡しとなっております。必ず仰った額だけの金貨をお持ちになって、再度ご来店下さいませ。……では引き続いて参りましょう。次は薬でございます。遥か海を越えて伝わりました貴重品。ガゾックの根をすりおろしまして粉末に致しました」

司会の言葉に商人たちはざわめきたった。

「ガゾックの粉か! 熱病ならどんなものでも治すという」

「いやいや、飲みすぎれば猛獣バークーンをも殺すそうではないか」

「扱い方を間違えれば持ち主も危ないと言うな。そのガゾックの粉に、こんなところでお目にかかれるとは」

「これは是が非でも落とさなくてはな。いくらで売れるかと考えただけでも……」

騒ぎが収まるのを待って司会の男が再び口を開く。

「皆様もご存知の事と思いますが、ガゾックは非常に高価なものでございます。今回は運良く手に入れる事が出来ましたが、次はいつになるやもわかりません。それを計算に入れた上でお値段をどうぞ」

値段はあっという間に吊り上った。客はみな上限を知らぬほどに熱狂し、高価な薬を競り落とそうとしている。

レノア金貨が一枚あれば、かなり高額の品が手に入る。馬一頭は、金貨が二枚もあれば買える。それが今や、たった一袋の粉に対して何十枚という単位で上がっていくのである。既に手を引いた末席の商人たちは、口の端を吊り上げ、その様を見ていた。恐ろしい事になってきたと小声で言い交わしながらも、彼らの目は事の成り行きを楽しんでいる。

結局、どこかの貴族が競り落とす事に成功したようだ。かなりの代償だったのだろう。同じ席についている女性が慌てた表情を浮かべている。が、彼は満足そうな笑みを見せた。彼がそれをどう使うのか、それは今夜ここに集まった客には興味のない事。彼らは既に次の商品に目を向けている。

「さて、いよいよここからが本番でございます。どなた様もご注目下さい。他では手に入らぬ最上級品をご用意致しました!」

踊り子が八人に増えて、鈴と太鼓をせわしく鳴らした。身体をなまめかしくくねらせて、彼女たちは踊る。台の奥の通路から、滑車に乗せられた檻が運ばれてきた。踊り子たちは一層激しく腰を振り、客の熱気を煽る。人々は身を乗り出して壇上の檻に入っているものを眺めた。その目はどれも食い入るように、檻の中に吸いつけられている。

それは、子供の入った檻だった。最初に出された檻の中には、透けるような白い肌の幼女が座り込んでいる。流れるような緑の髪はこの世の者とも思われぬほど美しく、その怯えきった表情が、それにまた華を添えているとも言える。彼女はまるで陶器で作った人形のように綺麗で、儚げだった。

客は先ほどよりも更に熱くなって競りにかかった。最初の「商品」を競り落としたのは大富豪の男で、舌なめずりをしている。彼女の行く末に、正常な人間なら身の毛もよだつだろう事が待っているのは明白だった。

次々と少年や少女が引き出され、競り落とされていく。当然、公の奴隷市なら、子供を檻に入れて競りにかけるなどという事は許されていない。しかしここでは、それはさも当たり前のように行われていた。疑問や後悔、また怒りを覚える者は誰もいない。

「さて皆様……お待たせ致しました。本日の目玉商品です! メラームの町で手に入れました、最上品。この世に二組とは見られぬ、同じ顔をした子供でございます!」

司会の男が興奮した声を張り上げると、踊り子たちが一斉に鈴と太鼓を鳴らし、護衛兵が二人を檻の中へ放り込む。客は一斉に檻を覗き込もうと壇に近づいた。檻の中では双子が小さく身を寄せている。小さく言い交わす声が震えていた。

「どうしよう……どうすればいいの? ねえクリフ」

「そんな……僕だって分かんないや」

「誰か、誰か助けて」

「クレオ……」

二人はお互いの手を握り締めたまま、好奇の視線に晒され続けた。やがて競りが始まり、値段がどんどんと上がっていく。客の声が高まり、興奮を帯びるに連れ、絶望が彼らに近づいてくる。

「四十五が出ました。これだけですか? こいつらはまったく同じです。同じ日に、同じ母親から生まれた双生児です! 他では絶対に手に入りませんよ! 使い道は色々、ご自分で可愛がるもよし、収集家に売り飛ばすもよし、賄賂として貢がれるのも大変効果があると思われます。さあ、他にございませんか?」

「よし、五十出そう!」

「いいやこっちは六十だ! !」

「ええい八十だ! 双生児は俺がもらった!」

金額は止まるところを知らぬかのようだ。これほど珍しい掘り出し物はないと、客は興奮の極みである。彼らは嬉々として競り落としにかかっていたが、檻の中からは地獄の有様にしか見えなかった。

「シキ様はこの町にいるかしら……そしたらどこかで双子の噂を聞いてないかな……」

「もしこの町にいれば、きっと助けに来てくれるよ」

「うん……大丈夫だよね……助かるよね、私たち」

「きっと、きっと誰かが助けてくれる」

二人は運命の神クタールに祈り、助けが来るのを待った。彼らには待つ事しか出来なかった。持ち物は全て取り上げられ、身につけている薄布の肌着以外、彼らは何も持っていない。どれだけ考えても、彼らがここを抜け出す方法があるようには思われなかった。今、彼らが出来る事は奇跡を信じ、助けが来る事を待つだけだった。

双子を競る声は、かなり数が減ってきた。時折、力の入った声がかかる。

「百十五……百二十ですね、サムリー様。他の方は? よろしいですか?」

司会の男は、背の高い地主から太った商人へと視線を移した。最後まで競り合う気でいるのは二人きりのようだ。他の人間は固唾を呑んでその様子を見守っている。

「……百二十二だ」

「百二十二が出ました。もうありませんか?」

司会が黙って会場を見渡す。小さな息遣いと緊張感が部屋中に満ちていた。地主は歯を食いしばって司会を睨みつける。

「なければこれで……」

司会が言いかけた瞬間、地主が大きな声で叫び、そしてそれが決定打となった。

「百三十ですね。……サムリー様が手に入れる事になりますが? ……ゴダル様、よろしいですね? ……では、決定します!」

クリフとクレオの、懸命の祈りは届かなかった。助けは来なかったのである。驚愕と恐怖が彼らを打ちのめした。クリフは呆然とその場に立ち尽くし、クレオは力の抜けた足を抱え込むようにへたへたと座り込む。金貨百三十枚という大金をはたいて双子を手に入れる事になったサムリーという男は、その顔ににんまりと勝利の笑みを浮かべていた。

護衛兵の太い腕がクリフとクレオをあっさりと掴みだし、次の犠牲者となる少年を檻に入れた。そして、司会が再び声を張り上げる。

「それでは次の商品に参りましょう! さあ、これへ出て参りましたのは……」

ゴダルという男は卑劣な性格の持ち主であった。縮れたこげ茶の髪には白髪が混じり、背は低かったが頑丈そうな体をしていた。たるんだあごにはやはり縮れたひげが蓄えられ、くすんだ灰色の目はどんよりと鈍い光を放っている。彼の容姿には、彼を西方の出身だと言わしめるような特徴があった。髪も、体格も、西方出身の者に多い特徴を備えている。そしてその通り、ゴダルは西国、タースクの出身であった。

タースク地方では雨が滅多に降らない。領民は昔から難儀していた。若い商人であったゴダルは、レノアのミュルク地方に目をつけた。タースクからは遠いが、雨には不自由しない地方である。彼は当時の財産をはたき、長旅を開始した。そして、大量の水をタースクまで運ぶ手立てを見出したのである。危険な旅であったが、彼は成功した。

その成功を目の当たりにし、他のタースクの商人たちも次から次へと真似をし始めたが、彼らは皆、謎の死を遂げていった。それがゴダルの仕業である事はすぐに分かったが、誰も恐ろしくて告発などは出来なかった。それほどまでに、ゴダルが恐ろしかったのである。ゴダルはその時既に、タースク領主よりも権力を持っていた。それも当然だろう、タースク領主すらゴダルの運ぶ水がなければ生きていけなかったのだ。ゴダルは対立する商人の雇った暗殺者から逃れ、レノアに移り住み、大きな屋敷の中庭にそれは見事な噴水を作らせた。雨の降らない季節にも、ゴダルの噴水から水が絶える事はないと言う。

そのゴダルが屈強な傭兵一人を連れて、闇市の終わった直後に現れた時、店主の胸に嫌な予感がよぎった。ゴダルは最後まで双子を競り合っていた。しかし競り落としたのはサムリーという地主である。闇市が終わった直後、そのゴダルが現れた。店主が眉をひそめるのも無理はない。

競り落とされた商品の引き渡しは、市の行われた日の翌日以降と決まっている。商品と値段、競り落とした人物を照らし合わせなければならないからだ。また金が用意出来ぬ者もいる。競りの場ではつい熱くなり、高額を支払う事になってしまったが、実際にそんな金を用意出来ない……そういった事もある。そのために、金をきちんと持って来た者にのみ、商品を引き渡す事になっていた。しかし時折、商品を横取りしようとする輩が現れる事もある。ゴダルは以前にもこうして闇市直後に現れた事があった。もちろん、自分が競り落とせなかった商品を手に入れようとしたためである。

店主は帳簿つけが忙しいような振りをしていたが、ゴダルはそんな事にはお構いなしである。濃い、縮れたあごひげを指で引っ張りながら話しかけてきた。

「今日わしが競り落としたのは魔剣ジュリウスだったな」

「これはゴダル様。仰る通りでございますが……商品のお引き渡しは明日以降でございますよ」

「そんな事は分かっとるわ。わしがここに来たのはその件ではない。別の商品を見せてもらいに来たのだ」

「どの商品でございましょう。市は既に終わり、全ての商品に買い手がついておりますが」

「あれだ、同じ顔の奴隷だ」

「双生児でございますか。あれはサムリー様が競り落とされました」

「下らぬ事を。店主、わしは百四十出す。あの双子をわしに売れ」

「ゴダル様、それは出来かねます。明日、サムリー様に申し訳が立ちません」

「わしが文句は言わせん」

「……店の信用に関わりますので」

「わしを誰だと思っておるのだ。百四十枚の金貨を出すと言っておるのだぞ! ぐだぐだ言わんと牢屋へ案内せい! おいバルタゴス!」

ゴダルが合図をすると、すぐ後ろに控えていた傭兵が店主の襟首を押さえて店から連れ出した。店主は逆らう事も出来ず、しぶしぶ彼らを牢へ案内する。

ゴダルと店主、そしてバルタゴスと呼ばれた傭兵の三人は、かび臭い匂いのする牢屋へと向かった。牢へ入る鉄の扉の前には、それを隠すような形で小さな小屋が建てられている。中には机と、仮眠出来る程度の小さな寝台が置かれているに過ぎず、そこに背の曲がった男が一人、入り口に背を向けて眠っていた。ゴダルはつかつかと小屋に入り、手に持っていた杖で男の背を強く叩く。慌てて跳ね起きた牢番はきょろきょろとあたりを見回した。

「いたたたた……。あ、ゴダル様じゃねぇですか。こんな夜遅くに何の用ですかい?」

背をさすりながら聞いたが、ゴダルは牢番の言葉に耳も貸さぬ様子である。

「こんな男に牢番の仕事をさせているのか。おい貴様、鍵を開けんか」

「鍵って……いやいやいやいや駄目でさぁ。誰も入れるなって……」

「早くせい!」

「へ、へぇ」

両手を目の前で勢いよく振っていた牢番だが、傭兵バルタゴスが大剣に手をかけるのを見ると、首をすくめて丸い背を一層丸めた。怯えた様子で腰の鍵束を探ったが、なかなか扉の鍵を見つけ出せない。そんな小屋の様子を、小さな影が見ていた事には誰も気づかなかった。影は慌てた様子で帽子をかぶりなおすと、すぐにどこかへ走り去った。

牢番がもたついている間に、傭兵から解放されていた店主はそっと後ずさった。上手く気づかれずに小屋から出ると、慌てて胸から下げた小さな笛を吹く。ゴダルたちが音に気づいて小屋から出てくると、既に四、五人の護衛兵が小屋を取り囲んでいた。彼らは剣を抜き放ち、じりじりと二人に迫る。店主はしてやったりといった表情で高みの見物を決め込んでいる。牢番はといえば、恐ろしさの余り小屋の中から出られずに、ただ怯えるばかりだ。店主が勝ち誇ったように告げた。

「ゴダル様、決まり事を破ってもらっちゃ困りますな。傭兵をお連れだったようですが、たかだか一人では、屈強な護衛兵たちには敵いますまい」

しかしゴダルは平然とした表情のままだ。その口の端には笑みさえ浮かべている。危ぶんだ亭主が号令を下す前に、バルタゴスが指を鳴らした。すぐさま近くに潜んでいた傭兵たちが十数人、その姿を現す。店の護衛兵と店主は逆に取り囲まれる形になってしまった。

「わしがたった一人の供で商品の横取りに来るとでも思っていたのか、めでたい男だ」

ゴダルはせせら笑い、すぐに厳しい声で言った。

「貴様ら、こういう時のために高い金を払っているのだぞ! 誰にもわしの邪魔をさせるな! バルタゴス、中へ入るぞ」

雇われている傭兵たちは、言われた事をするだけだ。例え悪事を働こうとも、傭兵にとっては仕事をくれる主人がいい主人なのである。ゴダルの命令に従って彼らは剣を構え、護衛兵たちを包囲する陣形を取った。

形成はすっかり逆転した。ゴダルの傭兵たちは、店の護衛兵との距離を徐々に詰めていく。ゴダルとバルタゴスは、怯えきった牢番から鍵束を奪い、牢へと入っていった。店の護衛兵たちはそれを止める余裕もなく、誰かが口火を切るのを待って目を光らせている。しばらく沈黙が続いたが、ついに一人が切りかかり、それを合図にするように戦闘が始まった。

店主は慌ててその場を逃れ、この事態にどう収拾をつけるべきか必死で考えをめぐらせた。あたりにはまだ誰もいないが、しばらくすればイルバの兵が騒ぎを聞いて駆けつけてくるだろう。それまでになんとか片をつけねばならない。

と、そこに一人の青年が現れた。店主はまだ気づいていない。背が高く、鍛え抜かれた体躯の男は、迷う事なく小屋の方へつかつかと歩み寄った。目の前の戦闘に驚く様子でもない。青年は腰に長剣を携えていた。長剣の鞘や柄は、その剣が青年の軽装に似つかわしくないと思わせるほど立派なものである。男は、店主のところまで来ると簡潔な言葉を口にした。

「双子が連れて行かれては困るのだろう。助太刀しよう」

「えぇ? あんた誰……いや誰でもいい、止められるもんなら止めてくれ!」

青年は小さく頷くと、戦いの輪に近づいていった。

戦闘は既に終わりの兆しを見せていた。店主が呼んだ護衛兵は最後の一人になり、背に深手を負っている。ゴダルの傭兵たちはそれを取り囲んでいた。傭兵頭と見える男が先頭に立って護衛兵を追い詰めている。服は敵の返り血によってか、あちこちに濃い、赤い染みが出来ている。傭兵頭は血のついた左手で顔を拭うと、にやりと笑った。敵を全て殺す必要はないはずだったが、彼は血に酔い、また戦いそのものに酔いしれているのだろう。興奮のあまり唾を飲み、いよいよといった感じで剣を振り上げる。そこに、静かな声が響いた。

「それ以上やる事はあるまい」

傭兵頭は声の主に一瞬目をやったが、気にする事もないように剣を振り下ろす。それを防ぎ切る事が出来ず、といって避ける事も出来ない護衛兵は大剣に叩きのめされ、ぐったりと頭を垂れた。傭兵頭が、ゆっくりと振り返る。

「貴様にゃ何の関係もない事だ」

凄みのきいた声に動揺する事もなく、青年はごく落ち着いた口調で切り返した。

「双子を連れて行かれては困るんだが」

「やろうってのか。いい度胸だ」

その言葉に同調するように、傭兵たちはみな剣を取り直し、青年に向き直った。場に新たな緊張感が漲(みなぎ)る。青年は、抜き放った重そうな長剣を事もなげに構え直し、相手を睨みつけた。

「双子を連れて行って欲しくないだけなんだがな。……まあいい、俺の剣の前に出るなら容赦はせん」

「小癪(こしゃく)な事を……!」

「なめた口を利くな!」

二人の傭兵がそう口々に叫びながら飛び掛かってきた。男は一人の剣を交わし、その肩に長剣を叩きつける。力を込めて切り下げ、それを抜いた勢いで二人目の剣を受ける。力強く跳ね返して、二人目の腹に剣を叩き込む。傭兵は、青年の剣の元にどうと倒れた。

その身のこなしと剣のさばきに、残った傭兵たちがざわつく。唾を飲んで一、二歩後ろへ下がっると、青年は逆に前へ一歩進み出る。対峙する剣に隙はない。

傭兵たちは互いに間合いを計っていたが、最終的に先ほどの傭兵頭が沈黙を破って打ちかかった。剣士は鋭く身を沈め、それへとばかりに傭兵頭は剣を振りかぶる。その刹那、視界から青年の姿が消えた。剣を振り下ろしながら踏みとどまり、慌てて振り返った傭兵頭の目に剣のひらめきが映り、それが、彼の見た最後の景色となった。

次の瞬間には、青年に向かって幾つもの剣が振り下ろされたが、剣士はそれらを全て交わし、そしてまた一人、彼の剣に切り伏せられた。その全ては瞬く間に行われ、店主は目を見開き、固唾を呑んで見つめる事しか出来なかった。

騒ぎを聞きつけたのか、それとも近隣の住民が通報したものか、イルバ兵が集まってきていた。イルバではこういった諍(いさか)いは日常茶飯事であり、兵士は驚く様子もない。彼らはみな、領主ダルケスによって訓練されている精鋭ばかりである。兵士たちは無駄のない鎧に身を固め、細身の剣を腰に挿している。その全てにイルバの紋章が刻印されていた。

店主がまずい事になったと舌打ちをしている時、領主ダルケス自身までがその場に現れた。洗練された服の襟元に洒落たスカーフをのぞかせ、濃い灰色の髪は綺麗に撫でつけてある。髪と同じ色口ひげはきちんと切り揃えられていた。年の割には張りのある肌で、青い目は知的な光を放っている。その領主の姿を認めて、店主は再び舌打ちをして唇を噛んだ。

「私の町で争いはやめてもらおうか。何が起こっているのか、正直に言いたまえ」

「……競り落とされた商品を、ゴダルの旦那が横取りしようとしなさってね。あちらの傭兵どもにうちのが全部やられちまったんですよ」

「では、今あそこで傭兵たちを相手にしているのは誰だ?」

「知りませんよ。突然出てきて、助太刀してやるってんで……」

「なかなかの身のこなしだ。きちんとした剣を習った者の動きだな。……ところで店主、品は何だ」

――ち、やはりそう来たか。

ダルケスは善良な人物で、子供奴隷の取引を良しとはしない。しかしながらそういった取引全てを取り締まろうとしているわけでもなかった。今夜のような揉め事は、この町ではちょくちょく起こる。そういった時にダルケスは奴隷取引禁止法を建前に、商品を取り上げるのだ。商人たちにしてみれば、体よく上前を跳ねられるのと同じ事だった。争点の的になっている「商品」が子供の奴隷だという事を知ると、案の定ダルケスはその顔に笑顔を浮かべた。だが、目は笑っていない。

「困るな、この私の目の届く範囲で認可されていない奴隷市を開いてもらっては。分かっているだろうが、本来ならば今夜の市で扱った商品全てが取り上げだ。……ま、今回はお前たちに不備はない。子供奴隷だけで許してやろう」

ダルケスは自分の言いたいことだけを言うと、恨めしく睨む店主に目もくれず、衛兵に合図を送った。イルバの精鋭たちはあっという間に残った傭兵たちを取り押さえにかかる。

その様子を見て取った青年剣士は素早く牢の中に入って行った。最奥では、ゴダルとバルタゴスが双子の入れられた牢に合う鍵がないかと、鍵束の鍵を片端から扉に差し込んでいる。しかし彼らは、まだ目的の鍵を見つけられずにいたようだ。青年の姿を認めると、ゴダルはバルタゴスに向かって喚きたてた。あまりに慌てたので、口の端から唾が飛んでいる。

「あ、あいつを止めておけ!」

誰かが入ってきたということは、もう外に傭兵が残っていないということである。これだけ騒いでいたのだから、イルバ兵も来ているだろう。双子は諦め、自分だけは何とかその場を逃げだそう。そういう姑息な考えである。ゴダルは鍵束を投げ捨て、バルタゴスを盾にして向きを変えると、牢の出口へ向かって駆け出した。

音を立てて唾を吐き捨てると、バルタゴスは剣を構えた。しかし彼の持つ剣は大きく、低い天井の牢で振り回すようなものではない。すぐにそれを理解したバルタゴスは大剣を投げ捨て、短剣をいくつか取り出した。距離をとり、続けざまに投げる。しかしいくつかは交わされ、いくつかは剣で叩き落されてしまった。ならば、とバルタゴスは青年に飛び掛かかったが、相手の持つ長剣がその邪魔をしていた。立ちすくむバルタゴスに青年が駆け寄り、剣を振り上げる。両腕を交差させ、なんとか防ごうとした。が、剣は一瞬の内に向きを変え、腕の隙間から入り込む。バルタゴスが気付いた時には喉元に突きつけられていた。バルタゴスは歯を食いしばって青年を睨みつけた。

「俺の負けだ、殺せ」

「お前を殺す意味はない」

そう言いながら青年はあっさりと剣を引く。バルタゴスの目が大きく見開かれた。

「馬鹿な事を言うな! 俺は負けたではないか!」

「無意味には切らぬ」

青年は一歩下がった。右手で剣を構えたまま、左手で外を指し示す。バルタゴスは余りの悔しさに歯噛みしながら外へと駆け出した。

「シキ様!」「シキ様!」

牢屋の中から二つの声が同時に響く。息を整えて剣をぬぐい、鞘に収めると、シキは牢の鍵を取り出した。鍵を開けながら、牢の中で泣きそうな双子を安心させるように言い聞かせる。

「彼らには開けられなかったんだ。ここの鍵は知り合いの少年が届けてくれたからな。ゴダルがお前たちを連れ出そうとしている事も、宿まで教えに来てくれたんだ」

クリフとクレオは感激に体を震わせ、牢が開くと、頼もしい助けにすがりついた。

「私、もう駄目だって思って……」

「このまま会えないかと思ってました」

「本当にお前たちだったんだな。まあ他に双子がいるとも思っていなかったが……。しかしどうしてまた……」

彼がそう言いかけた時、イルバ兵たちが牢に入ってきた。手にしたいくつもの光が牢屋の中に満たされ、子供たちとシキの目を一瞬眩(くら)ませる。衛兵はシキの足元に転がる鍵束を拾い上げ、次々と牢の扉を開けていった。長い間閉じ込められていた奴隷の子供たちは、嬉しさのあまり走り出ていく。彼らは、牢の外に用意されたダルケスの馬車に乗り、ダルケスの屋敷へ向かった。イルバ領主の館が素晴らしいものである事は周知の事実だったし、子供たちにとっては牢屋から出られるならばどこでもいい、というのが本音だった。彼らは文句一つ言う事なく、次々と用意された馬車に乗り込んでいった。クリフとクレオもその馬車に乗るように指示される。領主に逆らうわけにもいかない。

「案ずる事はない。お前たちの身の安全は保障されている。俺が明日にでも迎えに行くとしよう」

仕方なくクリフとクレオは頷き、しかしまだ名残惜しそうな顔で馬車に乗り込んだ。馬車は暗闇に吸い込まれるように消えていった。数台の馬車が同様に、町の北へと向かう。通りに出てきていた人々も、騒ぎが収まった様子を見て取り、それぞれの建物へ戻っていった。再び安らかな眠りを手にする者もいれば、商売を再開する者もいるのだろう。シキが汗ばんだ上着に風を入れていると、背中越しに誰かが声をかけた。

「貴公の名前を伺ってもよろしいかな?」

振り返ってみればイルバの領主、ダルケス=コルトその人である。しかしシキはその顔も名前も知らない。訝(いぶか)しげな表情を隠す事もなく、だがともかくも名乗った。

「シキ=ヴェルドーレだが……」

「イルバ領主ダルケス=コルトだ。よろしく。貴公はどういう経緯でここに?」

「あぁ、領主様でしたか。無礼な態度はお許し願いたい。私は先ほどの子供たちの知り合いです。奴に連れて行かれては困るので、勝手ながら剣を抜きました」

「そうだったか。知り合いという事であれば、明日にでも屋敷の方へ来るといい。湯浴みをさせ、服を着替えさせておこう」

「ありがとうございます」

「時に、君は素晴らしい剣の使い手だな」

「いえ、それほどの事は」

「ははは、謙遜も上手だ。ゴダルの傭兵を相手に一歩も引けを取らなかったではないか。どこでそんな剣術を習ったのか、聞いてもいいかな?」

「それは……」

シキは言葉に詰まった。レノア王国騎士団で、などと言えるはずもない。彼は「今」の騎士団とは何の関わりもないのである。ダルケスは何かを察したのか、手を振って言った。

「ああ、言いたくないならいい。……では明日、屋敷で待っているよ」

「昼過ぎには伺いましょう」

軽く頭を下げたシキに、ダルケスは美しくも紳士的な礼を持って返し、立ち去っていった。

イルバの大通りは中央の広場とつながっている。幅の広い通りが多く、路地はあまりない。道には馬や馬車が走り、身なりのいい貴族や、職を求める貧しい者たちなど、様々な格好の人々が往来している。石造りの建物は、色や高さ、それぞれ趣向を凝らして造られていた。建物の美しい見栄えは、イルバが洗練された街である事を示している。また街のあちこちに見られる市の丸屋根が、イルバらしさを演出しているといえるだろう。

シキとエイルはそんな洒落た街の一角を、領主の屋敷に向かって歩いていた。シキは半袖の上着に腰布という簡単な出で立ちで、左腰に長剣を挿していた。襟足が少し伸びた黒髪は、それほど手入れしていないにも関わらず、艶を保っている。一方のエイルは、バシェスの絹で織った柔らかな上着を、細い革帯でゆるく留めていた。陽の光が透けて見える水色の髪は、シキが毎朝丁寧に梳(くしけず)り、額につけた金の細い冠で留めていた。それでも前髪が額にかかってくるのを、エイルは面倒そうにかきあげる。

「朝から何度も、どこへ行くのだと聞いておるのに、なぜ答えん?」

「大きなお屋敷ですよ、と申し上げましたが」

青年騎士は、真面目な表情で答えた。しかしその深い緑の瞳はどこか笑っているように見える。エイルはぶつくさと文句を言った。

「いっつもそうだ。シキは勿体ぶって。私の質問にちゃんとは答えないではないか」

「そうでしたか? そのようなつもりはなかったのですが……」

「シキは、私をからかってるんだろう」

「とんでもありません、殿下。私はエイル様の忠実な臣下です。まさか、からかうなど……」

「ふん!」

鼻を鳴らしてそっぽを向くエイルを見ながら、シキは微笑した。エイルらしい仕草と表情である。大きな通りを抜け、石畳の広場を超え、また別の通りを横切り……二人は街の北端へと向かう。

領主ダルケスの屋敷はイルバで最も広く、壮麗な屋敷だった。敷地には緑豊かな庭園が広がり、一年中何かしらの花が咲き乱れている。庭園も、それは美しく素晴らしいものだったが、屋敷も負けず劣らず見事なものだった。白御影石で作られた三階建てで、手の込んだ彫刻が施された柱がいくつも立ち並んでいる。玄関に建てられた二本の柱は、中でもとりわけ大きく、高く、細かい模様が彫られていた。玄関に出迎えた執事が「全ては分かっている」とばかりに大きな広間へと、二人を案内した。重そうな扉が内側へ開くと、ダルケスがにこやかな笑顔を浮かべていた。

「ようこそ、私の屋敷へ」

部屋の壁には立派な暖炉が備え付けられていたが、火は入っていなかった。天井は高く、四隅にはさりげないが素晴らしい、小さな彫刻の像が飾りつけられている。シキとエイルは、礼をもって応えてから部屋へ入った。このあたりの身のこなしは、二人とも、さすが王侯貴族といったところだ。ダルケスは領主で、貴族階級である。エイルも王子らしく、礼儀正しく振る舞うつもりのようだった。

「何か飲み物でも? 酒がよろしいかな?」

「もらおうか」

そう言いかけたエイルを目で制し、シキが言い換えた。

「お茶で構いません。ありがたく頂戴します」

ダルケスは気づいたのかどうか、何も言わずに頷くと、そばの机に置かれた鈴を軽く鳴らす。シキたちが入ってきた大きな両開きの扉、その横の壁が突然口を開けた。きちんと閉めてあればまず分からないであろう、執事や召し使いたちが使うための扉である。こういった仕掛けは、レノアの王侯貴族の屋敷であれば、ごく当たり前のものだった。部屋にいる三人も、いきなり開いた隠し扉に驚く様子はない。

「こちらのお客様にキブール茶を」

「かしこまりました」

躾(しつけ)の行き届いた執事は軽く頷くと静かに扉を閉めた。扉が、一瞬にして壁に戻る。ダルケスは大きな長椅子に二人を誘った。美麗な刺繍が施された、豪華な布張りの長椅子が二組、部屋の中央に置かれている。シキは軽く頭を下げ、話し出した。

「コルト様、改めてお礼を申し上げに参りました。彼らを助けていただいて感謝しております」

「いや、それは貴公の活躍があってこそ。私は何もしていない。今はもう元気そのものだよ。ただ、精神的に辛かっただろうとは思うがね」

シキは双子の心中を思い、目線を下げた。エイルは何も聞いていなかったが、それを顔に出さぬようにして黙っていた。執事が人数分のお茶を机に置きに来る。ダルケスはシキに茶を勧め、元気付けるように言った。

「さぞかし君に会えたのが嬉しかったのだろう、昨夜は遅くまではしゃいでいたよ。早く会いたいと何度も言っていた」

「そうですか、それならよかったのですが……」

エイルは茶をすすりながら、独り言を呟く。

「へぇ、これ美味しいな。サナミィで飲んだのよりずっと甘みが深い」

「旦那さま、準備が整ったようでございます」

執事が、今度は正面の扉を開けて告げた。顔を上げたシキの表情は、ぐっと和らいでいる。一方のエイルは何が起こるのかと身構えた。

「では、連れてきたまえ」

ダルケスの言葉に、執事はすぐに扉を大きく開けた。彼は既に双子を連れてきていたのである。用意のいい執事に笑顔を向け、ダルケスは双子を部屋に呼び入れた。エイルが思わず長椅子から立ち上がる。水色の大きな目が、余計に大きくなった。驚きと疑問の入り混じっていた顔が笑顔を作っていく。クリフとクレオは顔を見合わせて笑い出した。エイルはその意味に気がつくと慌てて座り直し、恥ずかしさを隠し切れぬ顔を背けた。

「さて、全員が揃ったところで話を始めよう。まずは聞かせてもらいたい。君たちはどういった知り合いなのかね。あまり接点はなさそうに思うのだが?」

「我々は、彼らに助けられた事があるんです」

シキが言うと、ダルケスは余計に興味を抱いたらしく、身を乗り出して説明を求めた。シキは躊躇(ためら)った。しかし彼らが双子である事は今更隠せることでもなく、またイルバの領主が信用に値する人物だという事は疑いがなかった。クリフとクレオの恩人でもある。何も言わずに引き渡してもらおうというのは虫が良すぎる。とは言え、どこまで話せばいいものだろうか。

「実はその……到底信じられる事ではないでしょうが……」

シキは結局、過去から来た事を含めて説明し始めた。もちろん、今までの事情全てを話したわけではなかったが。

「随分と突拍子もない話だが……いや、信じよう。君の言葉には説得力がある」

と、ダルケスはシキの目を覗き込むように言い、それから自分を納得させるかのように頷く。シキは軽く頭を下げて謝意を表すと、話を続けた。

「我々は、当然ですが過去の世界に戻りたいのです。ここは、私たちが住むべき世界ではない。それにジルク殿が――我々をこの時代へ転移させた魔術師ですが――どうなったのか心配なのです。世界の破滅を予言されたわけですが、それが実際にどういう事なのか、今の我々には分かりませぬ。そのためにも……」

「優秀な魔術師を探したい、というわけか」

「はい。時を越えるとなると、魔法の力でも借りぬ事にはどうにも……それで絶対に出来るという保障があるわけではありませんが、当面はそれ以外に行く当てがあるわけでもないのです」

「世界が破滅するという占い、気になるところではあるな。一体、平和そのもののこの世界に、何が起ころうと言うのか」

「私にも、まったく分かりません。まだ、何も起こっては……」

そこまで言ってからシキはふと言葉を止めた。

「レノアの不穏な空気、あれが何かの前兆だと言うのだろうか……」

視線を中空に浮かべたまま、シキがまるで独り言のように呟く。ダルケスはここのところレノアで起こっている異変に思い当たって、なるほどと膝を打った。

レノアへの出入りが禁止されている事は、徐々に大陸中に広まっていきつつあった。誰が、何の目的でレノアを封鎖しているのか、それは誰にも分からなかったが、その事実は噂の形で各地へと伝わっていくだろう。今のところ世界に影響を及ぼしそうな事ではないが、それが破滅への序曲なのだとしたら……ダルケスはそこまで考えて、ある事に気づいた。

「シキ殿。占いに出たのは、世界を救うために双子が必要だと、そういう事だったな。では、双子を連れて元の世界へ戻らなければいけないのではないのか?」

「そうですよ!」

クレオが思わず、と言った調子で口を挟む。シキとダルケスの視線が双子の妹に投げかけられた。ずっと黙って大人の話を聞いていたクレオは、ようやく自分の番が来たとばかりに話し始める。

「きっとそうです。私たちにだって、出来る事があるはずです。あの時、レノアで『帰れ』って言われた時、すごく悲しかった。一緒に行きたかったんです。だけど……」

「確かにあの時の俺ら、いえ僕らは軽率でした。僕らはただ、その、旅に出てみたかっただけなんです。でも実際にサナミィへ向かって歩きながら、一緒に行けない事が悔しくなってきて……。役に立たないって思われた事が悲しかったんです」

クリフがクレオの言葉に同調し、それから二人は交互に、まるで堰(せき)を切ったように話し出した。

「それで引き返したんです。やっぱり連れて行ってもらおうって。そしたら、途中の宿屋で食事をしていかないかって言われて……」

「ただでいいからって言うんで食べたんですけど、気がついた時には変なところにいて……」

「違う違う、何を考えたかって話だったわ」

「あ、そうだ。あの、それでやっぱり思ったんですけど、俺、じゃなかった、僕らもきっと役に立つと思うんです」

「実は別れてから、何度もあの夢を見るんです。世界が破滅する夢を」

「僕も見るんです。レノアまで行く間は一回も見なかったのに」

「だからきっと私たちには使命があるんだって思ったんです。何が出来るかは分からないけど、きっと何か、世界を救う手助けが出来るんだろうって。そりゃ……また足手まといになってしまうかもしれないけど……」

「親父が言ってました。狩り人は村を出る時、二度と帰ってこられない覚悟をして行けって。もう二度と両親に会えなくても……それでも、僕らには出来る事が、やらなければならない事があると思うんです」

「一緒に連れて行って下さい、お願いします」

二人は、まくし立てるように一気に言い、最後の言葉はまるで練習したかのように同時に言った。シキは最後まで黙って聞き、それから深く息を吐いた。

「簡単に頷ける事ではないんだ。何が起こるか分からないし」

「君には責任があるのではないかな」

首を横に振るシキの言葉を、ダルケスが静かに遮る。

「……どういう意味ですか?」

「二人きりでは、安全でなかった。恐らく、彼らだけではレノアにも辿り着けなかっただろう。クリフたちが危険な目に遭ったのは、君がレノアで彼らを二人きりにしたからではなかったか?」

「それは、そうかもしれません。しかし」

「転移した先がこの時代だったというのは、君たちが双子に会わねばならん運命だったからだろう。運命の歯車を廻しているのはクタールだ。君がこの町で双子と再会したのも、彼の仕業だろう。ならば、ここで別れてもまた再会する……私はそう思うがな」

長椅子から立ち上がり、窓に向かっていたダルケスは、振り返ってシキを正面から見据える。クリフとクレオは互いの顔を見、ダルケスを見、シキを見た。

「最初、私たちが旅に出たいと言ったのは……サナミィが嫌だったからです。ただ、村から出たかっただけでした。シキ様は私たちが同じ顔なのを見ても驚かなかったし……」

クレオは頬を赤らめている。クリフはそんな妹に目をやりながら言葉を継いだ。

「僕らはただ、村を出られる事が嬉しかっただけなんです。でも、今は違います。出来る事があると、思いたいんです。世界の破滅なんて、なんだか難しくってよく分からないけど、僕らに出来る事が……僕らにしか出来ない事があると思います」

「シキ、彼らは君と一緒にいたいのだよ。危険な目に遭わせたくないのなら、君が守ってやればいい」

「……。……分かりました」

クリフとクレオの顔に驚きと、そして歓喜の色がありありと浮かぶ。エイルは自分が口を出す機会がないのでふくれっ面だ。それを見て取ったシキが尋ねる。

「殿下、よろしいですか?」

聞きはしたが、元よりエイルが「嫌だ」などと言うはずがない。だがエイルは冷たい顔で言った。

「足手まといは要らない」

「殿下!」

想像していなかった言葉に慌てるシキ。誰が足手まといだと思うの、といきり立つクレオ。二人に向かって、クリフが目で「大丈夫」と合図する。クリフはすっくと立ち上がると、エイルの正面に歩み寄った。長椅子の上でふんぞり返っていたエイルは、見下ろされて少々怯えたような表情を見せる。クリフは真面目くさった顔でエイルを睨んでいたが、突然その足元に膝をついた。

「エイル=ダルク=レノア殿下、どうか僕らをお連れ下さい。殿下と一緒に行きたいんです。どうか、どうかお願いします」

呆気にとられて、エイルの口があんぐりと開く。しかしすぐに我に返ると、居心地が悪そうに座りなおし、横を向いた。

「そ、そこまで言うなら連れて行ってやる」

その頬がほんのりと染まっているのを、クリフは見逃さなかった。クレオは「納得いかない!」という声が聞こえてきそうな表情を浮かべているが、クリフは気にせず、すぐ横にいるシキに笑ってみせた。シキは「なかなかやるな」と囁き、クリフは「シキ様には敵わないけど」と囁き返した。ダルケスはひげをひねりながら嬉しそうに笑っている。

「一件落着といったところだな。三人とも、仲良くするんだよ」

「どうして命令するんだ」

エイルが小さな声で言ったが、ダルケスの耳には届いていないようだ。クレオはまだ唇を尖らせていたが、笑っているクリフと目が合うと肩をすくめて苦笑した。

「……さて、君たちは優秀な魔術師を探しているんだったな。では有名な噂があるのを知っているかね?」

再び口を開いたダルケスの口調は、いたって真剣なものだった。四人は気を取り直してダルケスに向き直る。

「シンジゴ山脈を越えた遥か南、リューイー地方があるのは知っているかな。大陸の東岸、ミクリナ島などと行き来するための港町が多くあるところだ。その港町の一つ、コーウェンのそばに大陸一の魔術師が住んでいるという噂がある」

「コーウェン……」

「出生も年齢も、何をして暮らしているかも分からないと言うが、この世のありとあらゆる魔法に通じているんだそうだ。精霊たちと言葉を交わすとも、炎や水を自在に扱うとも言う。どこまでが本当かは分からんが、とんでもない魔術師である事は確かだ。噂では女性だという事だが……彼女を訪ねてみるというのはどうかね?」

「他に、高名な人をご存知ありませんか」

シキが尋ねると、ダルケスは肩をすくめて「知っている限りではその魔術師がずば抜けている」と言った。

「魔術師と言ったってね、火が灯せるとか、冷たい風を起こせるとか……その程度だよ、普通はね。素質がある者が修行をし、認定試験に合格してようやくそれだ。要は、町の便利屋だろう? 魔術師というのは。天候を変えるとか時を越えるとか、そういった大魔法はとてもじゃないが出来ない。ただ、コーウェンの魔女ならそういった事もやるかも知れんという、そういう話だ」

「……行く価値はありそうですね」

「遠い道程だがな。私もほんの少々ではあるが、協力するよ」

ダルケスは鈴を鳴らして執事を呼ぶと、いくつかの物を持ってくるように言いつけた。よく出来た執事のおかげで、すぐにそれらが四人の目の前に並べられる。袋入りの貨幣、コーウェンの位置を記した大陸図、天幕や寝具といった物から、旅には欠かせない服や食料まで、全てがそこに揃えられていた。クリフもクレオも、その無駄のない品揃えに目を見張っている。

「私のイルバで、手に入らぬ物はない」

ダルケスはそう言って、にやりと笑ってみせた。きっと中には、商人たちから体よく巻き上げたものもあるのだろう。もしかしたら全てがそうなのかも知れなかったが、シキは何も聞かずに、ありがたく受け取る事にした。

翌朝。ここのところ続いていた雨も今日は止み、空にはハーディスが輝いている。爽やかな風が四人の髪を吹きぬけていった。

青葉の月が終わると、白雲の月がやってくる。真っ白な雲が青空に浮かんでいる日が多いためか、そんな風に呼ばれる白雲の月は、やがてやってくる雨の月までのつかの間の晴天が続く。その間になるべく歩を進めておきたいところだった。

財布にゆとりの出来た彼らは、旅をするための馬をもう二頭手に入れていた。まだ若い、俊敏そうな二頭である。クリフもクレオも、馬にそれほど慣れていたわけではなかったが、二、三日するとすぐに乗りこなすようになった。器用に手綱を操って自分の馬を歩かせている。空は澄み、太陽は輝き、道は地平線まで続いている。目の前には豊かなレノアの大地が広がり、遥か先にシンジゴの山々が小さく霞む。延々と並ぶ田畑や森、目に見える景色の全ては、双子にとって自由の象徴だった。ほんの数日前まで冷たい土の牢に閉じ込められていた、それを思い出すたびに、身の毛がよだつ。自分たちが奴隷として売り飛ばされていたらどうなったのか……考えるだに恐ろしい。しかし、今はもう自由だ。狭く、差別感の強い村から脱却し、冷たい土牢からも助け出された。自由をようやく手に入れたのだ。これから何が起こるのか、世界がどうなっていくのか、自分たちには何が出来るのか。多くの疑問や不安も、決して無くなりはしなかったが、それでも彼らには活力が満ち溢れていた。

そんな彼らの横で、相変わらずシキの馬に跨(またが)るエイルが体をひねり、シキを振り仰ぐ。

「なあシキ、クリフたちとは、どこで再会したんだ?」

無邪気な質問に、シキと双子は思わず顔を見合わせた。シキは何も話していなかった。夜、宿屋で寝ていた間に何が起きていたのかなぞ、少年王子には知る由もない。シキが酒場に出かけたのも、クリフとクレオの身に危険が迫っていたのも、シキがゴダルの傭兵相手に戦ったのも、全てはこの数夜の出来事であり、エイルが平和に夢見ている間の事件だった。何故シキたちが笑うのか納得のいかないエイルは、矢継ぎ早に質問を投げかける。

「どうして領主と知り合ったのだ? いつどこで双子を見つけた? 夜、シキはどこかへ行っていたのだろう、どこで何をしていた」

「いや、それは……困りましたね。えぇと……」

「ずるいぞ、シキ。私にだって知る権利があるはずだ」

「話せば長くなりますし、勘弁して下さい」

「いいや勘弁ならん、全て話せ」

シキはエイルの質問をかわし続け、双子はそれを見て笑っていた。ようやく彼らにも明るい笑顔が戻ったと言えるだろう。目指すコーウェンは遠い。四人は、まっすぐに続く街道をひたすら南へ下っていった。

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