大陸一の力を持った大魔術師。既に絶えてしまった過去の魔法技術をも駆使し、不可能を可能にする魔女。そんな噂話を頼りに、大陸の街道を北から南へと辿ってきた。長い道のりだった。季節は移り変わり、気候も全然違う土地で月日は流れた。ようやく会えるかと思えば弟子だという男に居場所が分からないと言われ、いつまでかも分からないまま待つ羽目になった。その後、遠隔地から声だけが届いたと思えば、竜の出現による世界の危機が回避されるまでまた待つようにと言われる。何もできないまま、世界が救われるのかどうか不安な日々を過ごしてきた。
そんな長い時間が、ついに終わりを告げたという。
「どういうことなんですか」
「言った通りだよ。すべて終わったんだ」
その人は、人々の噂から想像していたような外見では決してなかった。清潔感があり、姿勢が良く、気品があった。肌には適度な張りと潤いがあるが、若くはない。皴が顔に刻み込まれているわけではないが、長い人生の機微を知り尽くしたように見える。対面していると、威圧感のある荘厳な音楽を聴いているような、どことなく緊張するけれど、同時に深く落ち着くような優しさに包まれる気がした。
「詳しい話をするつもりはないよ。……茶でも淹れようか」
ついにその姿を現したアメリ=コルディアは、いたって普通に茶の道具を用意し始めた。だが何かが変だ、とクリフは感じた。普通、ではない。どこかが違う。水は思ったよりずっと短時間で熱湯になり、杯や砂糖壺、さじなどの道具は本当にその手で並べているのか、音もなく勝手に動いているように思える。彼女が立ってから茶が用意されるまで、とても早く感じられた。どうにもおかしいと思うのだが、見ていても何が違うのか分からない。その感覚は不思議としか言いようのないものだった。
「もう一度言おう」
食卓についたアメリ=コルディアは、杯から立ち上る湯気をそっと吹いた。湯気はゆらめいて鳥のような形になり、それが竜の形を描き、最後は剣になって宙に消えた。ほんの短い時間だったので、クリフは目をこすってもう一度よく見ようとしたが、既に湯気は霧散していた。
「私がここへ戻ったということは、脅威は消えたということ。……竜は死んだ。それだけだよ」
クリフの喉が鳴る。まさか。本当に? この人が竜を滅ぼしたのか。この細腕で……いや魔術を使ったのかもしれない。でも、この人が言うなら本当なのだろう。前にエイルと話していた伝説の剣が見つかったのかもしれない。その剣で、やったのか。このほっそりとした女の人がそれを出来るとは思わない。恐らく屈強な騎士がその大剣をふるったのだ。どんな戦いだったのだろうか。クリフはどこかわくわくするような思いで目の前の魔女と呼ばれる人を見つめた。
「ロフグストの剣は砂漠に置いてきたよ。いわば、墓標だね」
エイルは横を向き、口に手の甲を当てている。誰にも気づかれまいとしていたが、その肩がかすかに震えている。シキがエイルをのぞき込む。
「エイル様」
「なん……でもない」
声が詰まる。竜の、アルヴェイスの最後を思う。体の中で、強く誰かに心臓を握られている気がした。こうなることは分かっていたのだ。アルヴェイスが、彼自身がそれを望んだから。自分がそれをアメリ=コルディアに伝え、彼女はアルヴェイスの望みを叶えた。当然の結果だった。それが分かっていてなお、エイルの視界が歪む。泣くことではない。自分はそんな立場にはない。そう言い聞かせ、エイルは唇をかんだ。泣き顔を見られたくはなかった。手の甲で拭い、息を整える。
「エイル……・」
双子は、そんなエイルの様子を心配そうに見ている。数日前から、エイルの様子はおかしかった。アメリ=コルディアと二人きりで話したいと言って、シキにも双子にも、詳しいことを語ろうとしなかった。
「恐らくもう夢は見ないだろう。安心するがいい」
アメリ=コルディアはそれだけ言うとエイルに視線を送った。エイルがそれに応えて口を開く。
「分かった。もうこの話は終わりにしてくれ。これは私の……私と彼の秘密だから」
「彼って? シキじゃないよね」
クリフが聞くが、シキは知らないというように首を振って否定する。エイルは鼻をすすって、不思議そうにしている双子に小さく笑って見せた。
「私にだって、秘密の一つや二つはある」
その言葉でシキは、イルバの街でのことを思い出した。あの時は、どのようにして双子を見つけ、助け出したのかを執拗に聞きたがるエイルに対して、自分にも秘密があるのだと言った。双子の笑顔を久しぶりに見た時の喜びと共に、四人で過ごしたその瞬間が美しい絵画のように思い出される。あの時はまだ小さく、弱く、何も知らなかった主君が、今はこんなにも強くなった。万感の思いで、胸が熱くなる。
「さて、本題だが」
アメリ=コルディアの声に、全員の視線が集まる。
「過去へ戻りたい。そういうことだったね」
エイルとシキが大きくうなずく。
「やり方はある」
全員が色めき立った。アメリ=コルディアの説明によれば、方法は分かっているが、実際に行ったことはないので、まずは成功できるかどうか実験などを行う必要があるとのことだった。また、二人の人間を、時を超えて移動させるには多量の魔力が必要であり、それを溜めるには時間もかかるという。
「それにしても、すごいわ」
クレオの賞賛の眼差しを受け流し、アメリ=コルディアは言った。
「今回のこと、エイルなしには解決しなかった。感謝しているよ。だからこれはその礼だ」
エイルの助力がなければ竜の脅威から世界を救うことはできなかった。アルヴェイスと呼ばれる竜が自らの死を望んだということだが、エイルがそれを伝えてくれたからこそ、アルヴェイスに穏やかな絶望の終わりを与えることが出来たのである。
「術法を行うのは、次の満月の夜がいいだろう。それまで別れを惜しんでおいで」
今は満月を少し過ぎたあたりで、次に月が満ちるまで、二十日ほどあると思われた。
「あと少しね」
「そうだな。今度は到達点が見えているのだから待つのもたいしたことではない」
エイルの言葉にクリフは驚いた。エイルがクレオの言うことを素直に認めたからだ。旅の始まりからここまで、クレオとエイルが喧嘩をしなかった日があっただろうか。その問いに首をかしげてしまうくらい、二人はぶつかり合ってきた。いつの間にこんなやり取りをするようになったのだろう。しかしクリフは嬉しかった。本当は仲がいいと分かっていた二人が、互いにそれを認めるようになったのなら、クリフにとってもそれは幸せなことだった。
「ついに戻れるのね」
「うむ」
「良かったね。本当に……良かったね」
「クレオ。……ありがとう。みなにも、本当に感謝している」
エイルの言葉に、シキとクリフが、誰よりもクレオ自身が目を丸くした。
「エイル様、成長なさいましたね」
「ええいうるさい、茶化すな!」
頬をうっすら染めたエイルがシキを叱咤する。双子はそれを見て、腹を抱えて笑った。
部屋には窓が二つあった。そのうちの一つの木枠に寄りかかり、エイルはどこを見るともなく外へ目を向けていた。外はすっかり暗く、夜空に白く見える雲が薄く伸びていた。
「まだ細いな」
女神メルィーズはそのほっそりとした姿を木々の上に見せている。満月になるのが待ちきれない様子で、エイルは月を眺めていた。
扉をたたく音がする。
「今、いい?」
クリフの声だ。もちろん構わないと入室を許し、エイルは笑顔を向けた。
「どうした」
「別に。ただ……エイルと話したくて」
「なんだ、急に」
「変かな」
額をぽりぽりとかくクリフに、ほっとする。
この世界へ来て、目が覚めた時、どことも分からぬ狭い部屋で一人きりだった。その日一日、自分に起きたことすべてが現実ではないように思えて、けれど頭痛や体中の違和感から夢ではないとも分かっていて、恐ろしさに身が震えた。すぐにシキがいると知り、安心して、それからはなるべく気丈に振舞ったが、時折足元が崩れ落ちるような不安に襲われることもあった。幼い自分は足手まといになっていると感じていたのは事実だ。頼りのシキも、三百年も未来の世界では戸惑うこともあっただろう。けれどクリフとクレオがいてくれたことで、この世界を歩いてこられた。特にこの、素直で勇敢なクリフが、エイルにとってはシキとはまた違う意味で安心感をもたらしてくれた。憧れでもあった。
「……長かったね」
「一年……もっとか。確かに長かった」
「僕もだけど、エイルもずいぶん髪が伸びた」
「そうだな。身長もだぞ。まあクリフの方が伸びているから、全然追いつかないが」
エイルも大きくなったよねとクリフが笑う。今ではクレオより背が高くなり、体つきも大人の男へと変化しつつあるクリフを見て、自分はまだ幼いと思う。その弱さを受け入れることが出来るようになったことが成長だと、シキは言った。そうなのかもしれない。自分には、人の助けが必要だ。この両肩に乗っている宿命は大きい。一人では成し遂げられぬだろう。
正直なところ、帰れる喜びがあったが、その先に待っているであろう苦難を想像すると、重い。喜びと不安をはかりにかければ釣り合いが取れてしまう。そもそも、本当に戻れるのかという不安もある。アメリ=コルディアの力を信じてはいるが、もし何かの手違いで、また別の時代に飛ばされたら。あるいは、まさかとは思うが、自分たちの存在が消えてしまうようなことになったら……? そう考えるとどうしても緊張する。そんなエイルの胸中を察したのか、クリフが急に手を伸ばしてきた。
「大丈夫だよ」
力強く両肩を掴まれる。
「……大丈夫」
クリフの、はしばみ色の瞳はまっすぐだった。エイルは唇を引き結び、黙ってうなずいた。
「本当に、世話になった」
「ううん。僕らこそ。広い世界を見せてもらった。たくさんのことを知ったよ。辛いこともあったと思うけど……」
「……」
「やらなきゃいけないこと、あるんだよね」
「そうだ」
負けそうになる気持ちを振り払い、エイルは強くうなずいた。自分には、使命があるのだ。
「僕も、見つけたんだ。やりたいこと」
「そうか。……お互い、がんばろう」
二人とも多くは語らなかった。それで十分だった。力をこめて握手を交わすと、クリフは部屋から出て行った。エイルはもう一度、窓の外に目をやる。
――あの月が丸くなったら、その時だ。
暦は白雲の月になった。レフォアの暦を使ってはいるが、ここアンワールではレフォアほど豊かな季節の違いがない。ただ、雨季と乾季とがあり、白雲の月は雨季だ。何日か前に久しぶりの雨が降り、それ以来空気の中に湿った匂いがする。雨季に入ると気温が下がり過ごしやすくなるとヴィトから聞いたが、洗濯物は乾かしづらくなりそうだとクレオは空を見上げた。夕暮れが近づいている。両腕に力をこめて敷き布団を取り込み、家へ運ぶ。ヴィトの家の裏庭には、まだ何枚も布団が残っていた。
「手伝おう」
優しい声に振り向くと、上着の袖をまくったシキが軽々と布団を持つところだった。
「ありがとう」
吹き抜けた風がクレオの髪を散らばせる。髪を耳にかけて、クレオはまた空を見上げた。昼の月がうっすらと天空に白く透き通っている。
「まだ……だよね」
「ああ」
シキが同意する。二人は乾いた洗濯物を手に持ったまま、しばし月を眺めた。
「……私、忘れません」
絶対に忘れない、と、クレオは心の中で繰り返した。この旅のこと、エイルのこと、シキのこと。そして色々な感情を。忘れない。忘れたくない。
「記憶は薄れるものだ」
シキの静かな声が胸を打つ。そんな。シキは忘れてしまうの? 口をついて出そうになる疑問を閉じ込めていると息が苦しくなる。
「忘れてもいいんだ。だが……俺も、忘れないでいたいよ」
はっとして見上げたシキは、空を見つめたまま続けた。まるで囁くような小声だった。
「俺は、エイル様を守る。命を懸けて。その先に何が待つか分からないが、きっと見届ける。そして、クレオとの約束も守ろう。いつか、自分自身を幸せにするための努力をする。誓うよ」
刹那、砂漠の夜が蘇った。冷たい空気。火の粉が舞う焚火の音。分厚く重いパージ。そして優しいシキの瞳。彼が好きだった誰かの話。自分が心から彼の幸せを願ったこと。
「きっと……ううん、絶対幸せになってほしい」
「クレオも」
こちらに向けられた緑の瞳は、もういつものシキのものだった。
「シキ以上に素敵な人なんていないと思うから、難しいかな」
おどけて見せる。くすっと笑ったシキはそんなことないと謙遜した。
「きっと現れる。クレオは魅力的だから」
「そんな……」
両手に洗濯物を抱えていては、頬が赤らむのを隠すのは難しかった。仕方なくうつむいたクレオに、シキは言葉を重ねた。
「クレオが思ってくれるように、俺もクレオには幸せになってほしいと思っている」
「……ありがとう」
がんばります、と精一杯の笑顔を見せた。
月は、まだ、満ちていない。
雨音で目を覚ます。そうか、もう雨季なんだ。クリフは小さく嘆息した。外での訓練が出来なくなってしまった。シキと剣の稽古をするはずだったのに、と唇を尖らせながら着替えをする。仕方がない、今日は家で出来ることをしよう。
朝の食事を済ませると、サーナの部屋から何か物音がすることに気づいた。そういえばここのところ、あまり字の練習をしていなかった。二階へ上がって扉を叩くと、ややあって木の扉の向こうからサーナが顔を出した。相手がクリフだと知るとにっこりと笑顔になる。そして手で部屋の中へと招いてくれた。
『すごいことおしえてあげる』
「え、なんですか?」
石板に、得意げに書いて見せたサーナに、クリフは思わず乗り出した。特にこれといった事件も起こらず、ただ月の満ちるのを待っている中で、「すごいこと」はまず起こらない。なんだろう、と期待するクリフの目の前に座り込んだサーナは、背を伸ばすと、目を閉じ、大きく息を吸って、吐いた。何度か繰り返す。
「……〜」
「えっ」
ゆっくりと、サーナは集中して眉を寄せている。その喉の奥から、声にならない声が、細く、息と共に漏れ出ていた。
「声が! 出るんですか!」
『ひみつ』
『まだ』
慌てて石板に書きつけるサーナに、クリフは遅まきながら口を閉じた。
『もっとちゃんと出るようになったら、みんなに言うの』
なるほど、というようにクリフは何度もうなずいて見せた。
「練習してるんですね」
今度は、クリフに応えたサーナが嬉しそうにうなずく。少しずつ回復しているのだ。クリフは胸がいっぱいになった。だがサーナは疲れたように肩を落とし、何やら長い文章を石板に書き出した。
『ヴィトがおしろにもどれるって言ったの。おじさまから手紙がきて、どこかのおしろに住むって』
「良かったじゃないですか」
心からそう思って言ったが、サーナは力なく否定した。
『マイオセールのおしろじゃないところ』
『しらない人と』
そういうことか、とクリフは納得した。確かに、知らない場所で知らない人と暮らすことになるのは、幼い皇女にとって辛いことだろう。ただでさえあんな怖い目にあって、心を傷めたというのに。クリフはどう慰めるべきかと悩んだ。こういう時、すぐにいい言葉が出てこない。エイルやクレオだったら、あるいはシキも、サーナの心を穏やかにするいい言葉が出てきそうだ。自分にはうまく言えない。
『もう会えなくなっちゃう?』
サーナが書いた石板の文字に、一層困ってしまう。
「それは……」
本来なら、エイルにしてもサーナにしても、王族がこうして城の外で一般市民と過ごすことなどあり得ないはずだ。エイル自身が、あり得ないと何度も言っていた。サーナがここにいることの方が不自然なのだ。どこかの城で暮らすのがサーナにとっていいことだし、当たり前のことで。でもそれはつまり、もう二度と会えないことになる。
「……フ」
困って頭をかいていると、サーナが服を引いた。そして懸命に口を開けたり閉じたりする。
「ッリ……フ」
「サ、サーナ皇女」
サーナは真剣な目でクリフを見つめている。そんな目で見られると、ますます困ってしまう。自分はどうすればいいのだろう。何を言ってやればいいのだろう。言いたいことは、あった。でもそれは言っても仕方のないことだ。竜の時と同じだ。自分にできることは何もない。
「あっ、あのさ!」
エイルに、やるべきことを見つけた、と言った。クリフは今、そのことを話そうと決めた。もう一つの、言ってもしょうがないことは言わないでおく。言えることを言う。出来ることをする。そうだ。そうしよう。クリフはそう決め、サーナに告げた。
「俺、やりたいことがあるんです」
クリフの話を聞いたサーナは丸い目をさらに見開き、こぼれそうな目でクリフを見つめた。本当か、と聞いている気がして、クリフはうなずいた。
「本当ですよ。だから、その」
『そばにいて』
サーナが石板に素早く書いたその文字を見て、クリフは息をのんだ。
「いや、でも」
両手を組み合わせ、サーナはお願いとでも言いたげにクリフに詰め寄った。それを無下に払いのけられはしない。
「サーナ……皇女、えっと、俺」
「悪趣味だなあ、立ち聞きなんて」
耳のすぐそばでそう囁かれ、リュークは思わず飛び上がった。ヴィトが唇に指をあてて静かにするように示している。
「静かにしなよ、部屋の中はいいところじゃないか」
「どっちが悪趣味だよ」
ヴィトに指を突き付け、リュークは小さく舌打ちをした。
「俺はちょっと入る機会を失ってどうしようかって思ってただけだよ。お前こそなんなんだ」
「私は単に通りがかっただけ」
「嘘つけ……」
「皇女は近々叔父上に引き取られるのだけど、本人はマイオセールの城に戻りたいようだね」
「あっそう。俺には無関係だけど」
「ルセールもこれから大変だよ。国王の跡目争いは実力行使だからね」
ヴィトはリュークの言葉を意にも介さず小声で話を続ける。リュークは小さく肩をすくめた。ヴィトが続ける。
「彼女もさぞかし不安だろうね。まだ小さいのに町の復興も気にしていたし、お優しい方だよ」
「だから、俺には関係な……」
「さて、次の仕事についてなんだけどね」
「やだぞ。俺はもうやらない。面倒くさいんだよお前の依頼は」
「昔、何でもするから置いてくださいって言ったの誰」
「安心してくれ、おかげさまで、もう一人でも食っていける」
「私も宮廷で働かないかと勧誘されていてね」
「聞けよ人の話」
「静かに。今後は王座を巡っての権力争いがすごそうだからねえ。裏の仕事も増えてきそうなんだよ」
「待て。ちょっと待て。俺はやらな……」
「誰のおかげでここまで育ったと思ってるの」
「恩着せがまし」
「そういえば君の探してた少女」
「なっ、何の話だよ」
「ルーアだっけ、彼女の居場所についてちょっと情報が」
「嘘だろ、嘘だよな、俺そんなこと話してない」
「精霊たちにちょっとね」
「……ばっかやろー」
これでもかとばかりに最上級の笑顔を浮かべて、ヴィトは言った。
「これからも、末永くよろしく頼むよ」
リュークは、その言葉にめまいがするようだった。
そうして、ついに月は満ちた。月の女神メルィーズはふっくらとしたその姿を堂々と夜空に浮かべ、この世の人々すべてを見下ろしている。
「いよいよだね」
緊張した面持ちのクレオに、クリフはわざと何でもない風に笑った。
「じゃあね、エイル。シキも」
「ああ」
シキがほほ笑む。エイルも笑ったが、寂しげに見える。
「ついにお別れだな」
「そんな風に言わないでよ」
クレオがむくれた。この時を望み、願って旅を続けてきたのに、いざ別れを目の前にすると四人の心は単純な喜びでいっぱいになることはなかった。複雑な胸中を言葉にするのは難しい。彼らは誰も口を開かないまま、アメリ=コルディアが床に描いた大きな魔法陣をじっと見つめた。
その時がきた。
「あのさ」
クリフが、意を決した顔で口を開く。クレオはぎくりとした。双子の兄が何を言うのか、分からない。
「……元気で」
短く、それだけを言ったクリフに、エイルが思わず抱きついた。クリフはその背中を優しく叩いている。クレオはその光景に感動と哀切の両方を感じていた。もう二度と、彼らと過ごすことはない。運命の神は我々を出会わせ、そして今、引き離すのだ。けれどそれはすべてを失うことと同じではない。残るものがある。人の記憶が薄れるものであっても、忘れたくないという思いが、確かにある。同じ時を過ごせないことは悲しいけれど、彼らと過ごしたことが夢ではないと、クリフもクレオも分かっている。大切に思うこの気持ちこそは、決して失わないだろう。
「では、いくよ」
アメリ=コルディアはゆっくりと低い声で詠唱を始めた。彼女は、時の神サキュレイアの力を借りると言っていた。魔法陣は淡く光り、その色は黄色と緑を行きつ戻りつしている。アメリ=コルディアの額に汗の粒が浮かび、目が細められる。並び立つ二つの人影は徐々に薄まり、やがてその表情も光の中で定かではなくなっていく。クレオは思わず手を伸ばしかけたが、クリフに止められた。目をやると、双子の兄はただまっすぐに、光を見つめていた。
「さようなら……」
どれだけの時がかかったのか、判然としない。二人はアメリ=コルディアの吐き出した深い息で我に返った。魔法陣の光は消え、そこにはもう、誰もいない。
「帰れたんでしょうか」
「それは分からないが……術法は成功した。サキュレイアの効果もあったし、恐らく、大丈夫だろう」
「ありがとうございました」
アメリ=コルディアは黙ってうなずくと、立ち上がって服を整えた。
「あなた方は、どうするつもり」
その言葉に、クレオはにっこりと笑う。寂しいのは間違いないが、ようやく務めを果たしたというような解放感が湧いてもきていた。長い旅だった。家を離れて、遠い南の地へ。一年以上もかけて旅をしてきたのだ。でも今、それはようやく終わった。家へ帰れる。脳裏に懐かしい父と母の顔が浮かんだ。頬に赤みがさす。
「サナミィへ戻ります。ね、クリフ!」
だがそのクレオの高揚感は、次の瞬間、凍り付いた。
「僕はここに残る」
「……クリフ、どうして」
「やりたいことがあるんだ。マイオセールの復興を手伝おうと思ってる」
「待って、どういうこと」
クリフはすっきりした顔で笑うと、クレオの動揺を落ち着かせようと両肩に手を置いた。その手がやけに大きく感じる。
「俺にもできることがあるって感じた。サナミィにいるよりもね」
「家へは帰らないってこと……?」
「うん」
「じ、じゃあ私も」
乗り出したクレオを押しとどめるように、クリフは両手に力を込めた。そして、いいんだよと首を振る。
「クレオは、俺と同じでなくていい。っていうかさ、クレオはクレオで考えて。俺と一緒にいることが正解って決まってない」
「そんな。だって」
いつだって、一心同体だった。生まれてから今まで、ずっと一緒だった。それが当然で、離れることなど考えられない。心臓が口から飛び出そうだ。
「嫌いになったとかじゃないんだよ。クレオは今でも一番の……なんだろう、えーととにかく、俺の一番だよ、クレオは。でも、俺とクレオは、違う人間だ。考え方も違っていいんだ。クレオはクレオが正しいと思うことをして。それが俺と同じかどうかは……いいんだ。ごめんね、うまく言えない」
「クリフ」
「時間はあるし、ゆっくり考えようよ。サーナ皇女の見送りもしたいし、まだしばらくここにお邪魔したいんですけど、いいですか」
アメリ=コルディアに向き直ると、快い承諾を受けてクリフは晴れ晴れとした顔で言った。
「あー、腹減っちゃったな!」
クレオは、ただ、その場に立っていた。アメリ=コルディアは静かに笑みを浮かべ、落ち着いたらいらっしゃいとだけ言いおいてクリフと共に部屋を出て行った。
時の神サキュレイアは人々に親しまれていた。多くの絵画に、細身で長身の姿で描かれる。手にした砂時計の中では決してなくならない砂が永遠に流れ落ち続け、その背には川の流れのような美しい髪が滑り落ちる。アメル=コルディアの後ろ姿にサキュレイアの姿が重なって見えた。
サキュレイアの砂は止まらない。永久に。時は、流れる――。
長く続く乾季だが、今年は例年に比べて涼しく感じられる日が多かった。町の上空高くには、雨季になるとよその土地へ飛んでいく渡り鳥が、何羽もくるりと輪を描きながら飛んでいる。太陽神ハーディスは賑やかな城下を見下ろしながら、地上の生き物すべてにその恩恵を降り注いでいた。
マイオセールの町はいつもよりずっと華やかな装いだった。そこかしこに花が飾られ、派手な色の布が家々から垂れ下がり、祝い事を盛り上げている。楽隊が辻や広場で楽し気な曲を奏で、人々は気前よく硬貨を投げている。子供たちは曲芸が楽しいのだろう、大道芸に集まる人垣の中で頬を真っ赤にして大きな拍手を送っている。誰かに呼ばれたのか、その中の一人が振り返り、急に走り出した。行きかう人混みをすり抜けて道に飛び出すと、丸々とした何かに勢いよくぶつかった。
「おやっ」
振り返った女はしりもちをついている子供を見ると、手を差し出した。
「周りをよく見なさいよ」
「いてて……ごめんなさい」
「おうちの人は?」
あたりを見回していると、母親らしき女が現れた。いつの間にか見失った子供を探していたらしい。慌てた様子で駆け寄ってくる。別の女の子の手を引き、父親らしい男が赤ん坊を連れて後から現れた。背が高く、ルセール人らしい縮れた黒髪と黒い目だが、母親の方はレフォア人のような色素の薄い髪と目の色だった。
「三人もいるんじゃ大変だね」
ぶつかってきた子を引き渡すと、女は母親の苦労を労う。
「おかーさーん、お菓子買いに行きたいー」
「あらいいわね、お菓子買ってもらうの? 今日はお祝いだものねえ」
「王様のお誕生日なんだよね!」
「違うよお」
「そうだもん!」
幼い子供たちが言い争うのを、大人たちは目を細めて見守っている。
「お祝いなのは確かだけどね。戴冠式っていうの」
「たいかんしきー? お誕生日じゃないの?」
「そうよ、王子様が王様になるのよ」
「おめでたいことだねえ」
「ええ、王様のおかげで町の復興もすっかり」
「ねえー! お菓子買おうよー!」
幼い子供たちにとっては王様の誕生日だろうが、戴冠式だろうが、小さな違いに過ぎないようだ。母親たちのおしゃべりに飽きたとばかりに子供たちは強く母の手を引く。女に会釈をするとその場を離れ、親子は歩き出した。
「新しい王様ってどんな人?」
「後で広場に行ってみようか。ご挨拶があるって話だ。ああでも人混みは嫌だな。またはぐれちまったら大変だし」
「そうねえ、人出はすごいでしょうね」
「迷子、なんないよー」
子供たちは二人してぴょんぴょん跳ねる。両親は苦笑した。
「どんな人かなー」
「見たいー」
「こらこら、見たいだなんて。珍しい動物みたいに言うんじゃない」
「そうよ。いい? 王族には最大限の敬意を払うものよ。王家の方々のおかげで、国民はみな平和に暮らせているのだから。あなたたちにはまだ分からないかもしれないけど、覚えておいて、あの方々は国民のために力を尽くしてくれているのだから」
父親は、自分の妻の言葉に熱意がこもっていることを感じていた。
「おかーさん、王様と会ったことあるの?」
「ないけど、新しい王様のお父さんの従姉のお姫様になら会ったことあるわよ」
「えー? だれー?」
「分かんなかった、もう一回言って」
「なんでお姫様に会ったことあるの、いつ会ったの?」
子供たちから矢継ぎ早に飛んでくる質問に、母親はつい笑ってしまった。
「詳しく話すと長いのよ」
「お母さん、すごい人なの?」
「おかーさん、王様になるくらいすごいの?」
「やだ、ならないわよ」
幼い我が子の飛躍した結論に、母親は体を曲げて笑ってしまう。
「お母さんは、ずっとあなたたちのお母さん。普通のお母さんよ」
「えー」
「でもでも、世界でいっちばーん! 一番のおかーさんだよ!」
「ありがと」
「お母さんの話、聞きたい聞きたい!」
「ききたーい!」
「若いころの冒険話、俺も全部聞いたことはないからなあ。せっかくだし、教えてくれよ」
「そうねえ……遠い昔の話だけど」
そしてクレオは空を見上げた。
彼女が空の彼方に見るものは、遠い、遠い過去のこと。決して忘れはしない、素晴らしい日々のこと。
エイルと最後の竜 完
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