Legend of The Last Dragon −第三章(5)−

騒ぎは一段と大きくなった。人々は、視界に入りきらない大きな影の存在を、ほんの少し忘れていたのかもしれない。しばらくしても動揺は止まなかった。レノア兵士は人々が落ち着くのを待っているのか、黙ってそれを見ている。それから唇の端を吊り上げると、突然、腰の剣を抜き放った。

「何をしようというんだ、そんな剣一本で!」

「そうだそうだ! この人数相手に一人で……」

レノア兵士は彼らの声に取り合わず、数歩前に進み出ると、手にした剣を勢いよく振り下ろした。その瞬間、耳を引き裂くようなかん高い音が響き渡り、人々は息を呑んで上を見上げた。青く澄み渡った空を大きな影が遮り、高く振り上げた頭が大きく真っ赤な口を開いている。あたりに、熱気が満ちていく。

その場にいた者はすべて、慌てふためいて走り出した。これから何が起こるのか、一目瞭然(りょうぜん)である。低い音があたりに轟く。それは獣の吼え声よりも、激しい雷よりも凄まじく、人々の恐怖という感情を存分に引きずり出すような咆哮だった。全速力で逃げる後姿を、轟音と炎が追う。人間が走る速さで逃げ切れるわけもない。数十人の被害者が、あっという間に火のついた服ごと地面でのたうち回る羽目になった。

炎と風が吹き荒れ、数える暇もない程の早さで人間が死んでゆく。巨体の当たった家のいくつかは崩れ、落ちた壁や天井の破片が土埃をまきあげる。ラナの木の枝もへし折れ、また飛び火した炎によって焦げてゆく。広場で倒れていた天幕の分厚い布に炎が燃え広がり、やがて炎は家々にも燃え広がっていった。

子供が小さな虫をいじって遊ぶように、大きな足が人々を踏みつけていく。黒き破壊者にとって、人々は逃げ惑う虫けらと同じ存在だった。一人一人の人生や、今までの日常などは何の価値もなく、考えるにも値しない。目障りな、取るに足らない虫たちが足の下でうごめき、それが気持ち悪いので踏み潰している。ただ、それだけの事だ。その行為に、人間が目障りな害虫などを叩き潰すのとなんの違いがあったろうか。

人は、小さき存在だった。出来る事は、何一つ、なかった。立ち向かえる者など、いようはずもない。他人を押しやり、荷物を投げ捨て、誰もが我先にと走っている。次々と吐き出される炎で燃やし尽くされる者もいれば、走っているところへ壁が崩れてくる不運な者もいる。それでも人々は逃げるのを止めようとはしなかった。ただ本能のままに彼らは走り、逃げ惑った。逃げる事しか、頭になかった。それ以外はただ、恐怖だけがあった。

――逃げよう。逃げるしかない。早くこの場を去るのだ。早く! どこかへ行かなくては……! 

さりとてどこへ行くというのだろうか。一体、どこへ逃げるというのか。マイオセールの周りには広大な荒地が広がっている。一番近くの村まででも、かなりの距離がある。用意もなしに町を出て行くことなど出来はしない。人々は、炎を避けようと、ただ取り乱すばかりだった。

「昨日までとは比べ物にならないほど素晴らしき支配が待っているのだ。感謝したまえ、マイオセールの民よ! ……いや、例えあがこうとしても無駄な事。このアルヴェイスがいる限り、逆らう事など出来はしない。好きなだけ走り回るがいい、どうせ逃げる先などありはしないのだからな!」

レノア兵士はいつの間に背に乗ったのか、翼の付け根で地獄の光景を見下ろしていた。その高笑いが耳に入る者は一人とていなかったが、彼はしばらく勝利の歓喜に酔いしれた。それから足の下の巨体に向かって大声で呼びかける。

「アルヴェイスよ、次は王宮だ。愚かなる者どもに思い知らせてやるがいい、お前の力をな!」

その言葉に反応するように、黒き破壊者の動きが止まる。鱗に覆われた体を震わせ、身をよじるようにして漆黒の翼を開いていく。すぐにそれは体の二倍ほどにまで広がった。足を曲げ、力を込めると、翼が揺らぎ始める。大きく羽ばたくと同時に、風が捲き起こった。広場に散らばっていた枝や天幕などが引きずられるように舞い上がり、そのいくつかは再び地面に叩きつけられる。風とともに土埃が舞い、残された人々は思わず顔を覆った。翼が力強く上下し、風を切る音とともに巨体が宙に浮き始める。浮き上がる速さが徐々に増し、十を数える間もない内に上空に達していた。何度か旋回すると、黒き破壊者は王宮へと向かって飛び去っていった。

鉄の門扉は開け放たれたままになっていた。あたりに兵士の姿はない。リュークが注意深く中に入ると、そこは台所のようだった。いくつもの鍋や調理道具が床に散乱していたが、不自然な静けさが漂っている。正面の扉から廊下へ出たが、やはり誰一人として姿が見えない。物音もしない。リュークは訝(いぶか)しげに目をきょろきょろさせた。

――なぜ誰もいない? 第一、静か過ぎる……。

突然遠くで、恐らくは町の方角だろう、猛獣の咆哮のような声が響いた。距離があるせいであまり明瞭には聞こえないが、その響きはリュークを腹の底から震え上がらせた。心拍数が、ぐんと上がる。今まで自分が聞いたことのあるどんな獣の声とも違うその声に、若き盗賊はぞっとするほどの寒気を感じていた。更に、建物が崩れるような音、大勢の叫び声などもかすかに聞こえる。体が固まってしまったように動かない。しかし騒音はしばらくすると小さくなり、やがて再び静寂があたりを支配した。

――何なんだよ、一体、何が起こってんだ? 

両脇の石壁にそって恐る恐る歩を進めていく。宝物庫のあるあたりは、見当をつけてあった。進入したのは王宮の最南端だが、宝物庫まではそう遠くないはずである。リュークは何が起こっても対処できるよう、油断なく気を配りながら歩いていった。……しかし今となっては、本当にこの宝石を宝物庫に返す必要があるのかすら定かではなくなっている。先程の兵士の言葉や、恐ろしい咆哮などが気になって仕方なかった。何かが起こっているのは間違いがない。リュークは不安に駆られながら、それでもゆっくりと歩き続けた。何か恐ろしい事が起こるような予感がしてはいたが、彼は歩みを止めなかった。恐らくは、彼自身の好奇心がそうさせたのである。

そのリュークの耳に小さな音が聞こえたのは、彼がいい加減引き返そうかという気になってきた頃の事だった。音に過剰な反応を示したリュークは、体の半分ほどの高さまで飛びあがった。思わず剣を抜く。冷たい汗が顔の横を伝った。

音は、すぐ横の部屋の中から聞こえたようだった。ルセール王宮は扉で仕切る部屋は少なく、この部屋も他と同様に厚い革の布が下がっているだけである。

何の部屋なのだろうか。部屋の中に、何があるのだろうか。リュークは緊張して喉を鳴らし、そっと中を覗いた。広い部屋だ。どうやら子供部屋らしく、小さな子供が遊ぶようなおもちゃが乱雑に散らかっている。人影は見えない。用心しながら部屋の中に入っていく。もちろん剣は構えたままだ。ここでも静寂が満ちていた。

「だれ? お兄ちゃま?」

突然か細い、しかし鋭い問いかけがあり、リュークは再度飛びあがった。もう少しで叫び声を上げてしまうところだ。破裂しそうな心臓を抑えて身構える。しかし声の主は、どう考えてもこの部屋の持ち主くらいであろうと思われる、小さな子供だった。大きなおもちゃ箱の後ろから、小さな頭が覗いている。リュークはほっと息をつき、それから驚きを隠そうと、思わず笑顔を作った。

「俺は、リュ……グ、グレイ」

「ぐぐれい? ふふ、変な名前」

「いやグレイだよ。……で、その、お前は?」

「あたし……えと、私はルセール王の娘、サーナ」

「王の娘? 皇女様かよ!」

「しいいいいいいっ! 大きな声だしちゃダメ! お兄ちゃまが、静かに隠れてなさいって言ったんだもの!」

慌てた様子で両手を振っているのは、幼い少女だった。まだ十歳にも満たないだろう。紫がかった赤い髪が腰のあたりまで美しく波打ち、何本もの細い金鎖で飾られている。褐色の肌とすんなり伸びた手足が愛らしい。小さな身体には透けるように薄い紫絹のヴェールをまとっていた。しかし何より印象的なのは、その可愛い顔からこぼれてしまいそうなほど大きい、紅色の瞳だった。不思議な事に、光の加減によっては紫にも、群青にも見える。その大きな目を好奇心できらきらと輝かせながら、彼女はリュークを手招きしていた。不審に思う気持ちを隠し切れずに、しかしそれよりも好奇心に打ち勝てず、リュークは剣をしまって少女の隣、大きなおもちゃ箱の陰に座り込んだ。

「で? なんで隠れてんだ?」

「竜がせめてきたんだって。サーナ、よく分かんないけど、お兄ちゃまが『ここに隠れてなさい』、って言ったの。お父様とお兄ちゃまが、竜を倒してくれるのよ」

サーナは真面目な顔だ。何度も、大きな瞬きをする。ぱちぱち、という音が聞こえて来そうなほどの長い睫毛が揺れた。盗賊と皇女は思わず見つめ合う。サーナは動かず、部屋への侵入者を見つめている。その瞳に邪気はない。リュークは、自分が少女の大きな瞳に見入っている事に気づいて苦笑した。

「ねえ、グレイはどこからきたの?」

――俺は子供相手に何を……いや、それより竜だって? 本当なのか? さっきの兵士が言ってたのも、嘘じゃなかったのか? そう言われてもぴんと来ないけど、とにかく、とんでもねえ時にきちまったのは確かだな。こりゃ依頼どこじゃねぇや。

「ねえねえ……」

「問題は俺がどこから来たかより、これからどこへ行くかだよ」

「グレイ、どっかいっちゃうの?」

「昔の人は偉かった」

「え?」

「意外と、学ぶ事が多いんだ。古人曰く、『三十六計逃げるにしかず』ってね」

軽く片目をつぶってみせる。そしてリュークは、サーナが再び口を開く前に部屋から姿を消していた。

「さんじゅーろっけい……って何?」

サーナはしばらく首を傾げていた。が、一人にされて不安になったのだろう、急にそわそわし始める。彼女が部屋を出ようかどうしようかと思案していると、部屋の入り口にかけられた布が勢いよく上げられた。驚く少女の目に、顔をこわばらせた青年の姿が映る。その肩が荒い息とともに揺れていた。

「あっちはまずい、水路が崩れて台所まで水浸しだ。何が起こったか分かんないが、ここも無事じゃなさそうだぞ」

「で、でもお兄ちゃまがここにいなさいって……」

「はっきり言うけど逃げた方がいいぜ、皇女様。俺の勘じゃとんでもない事が起きそうだ。正門、水路の他に出口はあるのか?」

「えと、町に抜けられるヒミツの道があるって、お父様が」

「どうやって行くんだ!」

「こわい、グレイ」

「いいから早く」

「えっとね、ここを出てすぐ左に曲がった先の突き当たりを、えっと右にいって、えーっと……四つある扉の、一番左奥のを開けて、三つめの角を右に曲がった突き当たりが中庭なのね。それでその北側に水場があって、それにシカケがあるの」

「おいおい、覚えきれねえよ」

リュークは突然の状態に驚愕し、また慌ててもいたが、サーナの言葉に思わず笑ってしまった。身振りを加えて必死に説明するサーナの様子は、いかにも大切に育てられたお嬢様といった雰囲気で、どこまでも愛らしい。リュークの返答ももっともだと思ったのか、サーナは首を傾げて思案した。

「んーとね、とにかく中庭なの。サーナが連れてってあげる方がいい?」

「悪いがそうしてくれ。第一、お兄ちゃまがどう言ったか知れないが、お前もずっとここにいるのはどうかと思うぜ。さあ、急ぐんだ」

「う、うん」

二人が部屋を出ると、兵士の叫び声が聞こえてきた。廊下を走っていくと、騒ぎが大きくなっているのが分かった。大勢の兵士が走り、鎧がかち合う。先程までの不気味な静寂は姿を消していた。平和なルセールでは耳にした事がないような物音に、皇女は怯えた表情を見せる。

「大丈夫、この俺様がなんとかしてやるって」

リュークが冗談めかして言うと、大きな目が彼を見上げた。もう一度、「大丈夫さ」と繰り返すと、震えながらも頷く。その小さな手は、リュークの手を握りしめたままだった。

「あそこが中庭なの」

そう言ってサーナが指差す方向に、日差しが差し込んでいる廊下が見える。柱が立ち並んで回廊を作っているようだ。ここまでくれば後少し……ではあるのだが、先程から大きくなって来ている騒ぎは、その中庭あたりから聞こえて来ている。リュークの胸に、黒い影がよぎった。ふと、そこに倒れている柱に躓(つまづ)きそうになり、彼は慌てて踏みとどまった。

――珍しいな、黒く光ってる柱なんて。

ルセール王宮では、その壁や柱のほとんどが漆喰(しっくい)で塗られていて、白い。リュークは長い髪をかきあげて首を傾げた。「柱」の先についているものが何なのかを確認しようとし……リュークはいつもの気取った格好のまま、一瞬にして凍結した。唇が薄く開き、青みがかった瞳が見開かれていく。サーナも、動けなくなっていた。ただ、小さな手だけが小刻みに震えている。中庭から聞こえてくる騒音も、その瞬間だけは、二人の耳に届いていなかった。

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