LL index≫第三章(一気読み) (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9) (10) (11) (12) (13) (14)
マイオセールは、未曾有(みぞう)の恐怖におののいていた。
人々は体の震えを押さえる事も出来ず、声を失い、ただそれを見つめている。そうする以外に、彼らは何も出来なかった。恐怖のために身動きも出来ず、ただ見ているだけだったのである。
広場のあちこちに建てられていた店の天幕はその多くが潰れ、残りはまきあがった砂塵にまみれて埃だらけになっている。ラナの木のそばにあった椅子は横倒しになり、水汲み場になっている小さな泉は栓が壊れていた。砕けた石の間から水が溢れ出ているのが見える。ラナの枝葉がそこら中に舞い落ちていたが、それもまた泥だらけになっていた。あたりは土の茶色と埃の灰色ばかりで、いつもここに溢れているはずの、鮮やかな色彩はすっかり失われている。
大木ラナの木より高いものは、マイオセールにはない。家々は、そのほとんどが平屋なのだ。白い壁と赤い土色の屋根が連なる街並み。ラナの木だけがそれを凌駕(りょうが)している。マイオセールの、そしてルセール国の象徴と言える、ラナの木。それは堂々と、その高さを誇っていたのである。そしてマイオセールに住む人々は、ラナの木より高いものなど見た事がなかったのである。今の、今まで。
人々の眼前にそびえ立っているものは、ラナの木よりほんの少し高いだけだったかもしれない。そういう意味で言えば、それは木とそれほど変わらないと言える。ただ、ラナの木とそれとは、あまりにも大きすぎる差があった。それは、自分の意志で動くのである。
先程まで大きく広げられていた翼は、今はそのなだらかな背に沿ってたたまれていた。「それ」は全身が黒かったが、その中でも大きな翼は、どこまでも黒い。まるで、永遠の闇を象徴するかのような漆黒の翼だった。艶やかな鱗(うろこ)をその体にまとい、太い四本の足には鋭い爪を、家一軒よりも大きな胴体には長い尾を備え付けている。長い首の先には尖った顔。口は真っ二つに裂け、爛々(らんらん)と光る二つの目が、人々を恐怖の底に陥れている。喉の奥から時折漏れるのは……疑いようもない。灼熱の炎だった。
最初の衝撃と恐怖から一旦その身が解き放たれると、人々は悲鳴を上げ、走り出した。町中の占い師はその顔を青く染め、女は失神し、男は女と子供を抱えて家へと逃げ込む。家へ逃げ込んだとて、対抗する手段になるわけでもなかったが、深く考えて行動出来る者などいはしなかった。誰しもが半狂乱になっている。髪を振り乱し子供を呼ぶ母親の声。愛しい女の名を叫ぶ男の声。恐怖のために泣き叫ぶ子供の声。人々の靴が石畳に叩きつけられる音と、木窓や扉が閉められる音。それらの上から、低い、唸り声にも聞こえる呼吸音と、暑く湿っぽい息が降り注ぐ。それから、一際大きな咆哮が人々の足をすくませた。人々は思わず立ち止まり、もしくはへたりこんで上を見上げた。
「それ」はもう一度咆哮を上げ、足を折って首を下げている。すると、翼の付け根あたりに影が動くのが見えた。その大きさと格好からして、人間であるようだ。降りてきたのが何者なのか、というのは一目で判明した。何故なら、象徴的な青銅の鎧とその胸に彫りこまれた紋章は、紛れもなく北の大国レノアのものだったからである。レノア兵士は筒状の書簡を手にしており、まだそこらに立ちすくんでいる人々に向かってそれを広げた。そして、集まるように、といった仕草をして見せる。人々は、互いの顔を見合わせながら、恐る恐る近づいていった。大きな巨体が作る影と、唸り声にも聞こえる鼻息とに怯えながらではあったが、やがて数十人が大きく輪を作る形になった。レノアの甲冑を身につけた兵士は、尊大な態度を隠そうともせずに言った。
「よろしい。……さて、マイオセールの諸君」
兵士は、ざわめきが静まるのを待って、書簡を広げる。近くの家々の窓や扉が怖いもの見たさと好奇心のために、ほんの少し開けられているのを確認すると、目を細め、にやりと笑う。それからやにわに大声を張り上げた。
「さあその耳を傾け、よく聞くがいい! 『マイオセールの市民たちよ。愚鈍なる王に支配される時はもはや終わりを告げたのだ。ルセールはレノアの守護神バダッフの加護を受ける事が許された。レノアは大陸全土に君臨し、ハーディスの守りしこの地に住む人々全てに、その深い慈悲を与えるであろう! 第三十七代レノア王 グリッド=リヨール=シュレイス=レノア』!」
大きなどよめきが人々の間から立ちのぼった。その中で、若く張りのある男の声が際立つ。
「どういう事だ! つまりはレノアの支配下に入れと言う事ではないか」
「それは違う。既にルセールはレノア配下になったと言っているのだ」
「そ、そんな馬鹿な話があるか!」
「突然やって来て何を……」
「ふざけるな!」
騒ぎはすぐに大きくなった。レノア兵士は人々が落ち着くのを待っているのか、黙ってそれを見ていたが、しばらくしても動揺は止まなかった。使者の伝えた内容と、その途方もなく尊大な態度がマイオセール市民の怒りに火をつけたのだろうか。彼らは先程までの恐怖を忘れ、怒声を張り上げ始める。人々は、視界に入りきらない大きな影の存在を、ほんの少し忘れていたのかもしれない。レノア兵士は軽蔑の眼差しで群集を眺めやっていた。が、唇の端を吊り上げると、突然、腰の剣を抜き放つ。
「何をしようというんだ、そんな剣一本で!」
「そうだそうだ! この人数相手に一人で勝てるとでも思って……」
レノア兵士は彼らの声に取り合うでもなく、数歩前に進み出ると、手にした剣を勢いよく振り下ろした。その瞬間、耳を引き裂くようなかん高い音が響き渡り、人々は息を呑んで上を見上げた。青く澄み渡った空を大きな影が遮ぎり、高く振り上げた頭が大きく真っ赤な口を開いている。あたりに、熱気が満ちていく。
人々は慌てふためいて走り出した。これから何が起こるのか、一目瞭然(りょうぜん)だった。低い音があたりに轟く。それは獣の吼え声や雷などよりも凄まじく、人々の恐怖という感情を存分に引きずり出すような咆哮だった。全速力で逃げる後姿を、轟音と炎が追う。人間が走る速さで逃げ切れるわけもない。数十人の被害者が、あっという間に火のついた服ごと地面でのたうち回る羽目になった。
炎と風が吹き荒れ、数える暇もない程の早さで人間が死んでゆく。巨体の当たった家のいくつかは崩れ、落ちた壁や天井の破片が土ぼこりをまきあげる。ラナの木の枝もへし折れ、また飛び火した炎によって焦げてゆく。広場で倒れていた天幕の分厚い布に炎が燃え広がり、やがて炎は家々にも燃え広がっていった。
子供が小さな虫をいじって遊ぶように、大きな足が人々を踏みつけていく。「それ」にとって、人々は逃げ惑う虫けらと同じ存在だった。一人一人の人生や、今までの日常などは何の価値もなく、考えるにも値しない。目障りな、取るに足らない虫たちが足の下でうごめき、それが気持ち悪いので踏み潰している。ただ、それだけの事だ。その行為に、人間が目障りな害虫などを叩き潰すのとなんの違いがあったろうか。
人は、小さき存在だった。出来る事は、何一つ、なかった。立ち向かえる者など、いようはずもない。他人を押しやり、荷物を抱え、誰もが我先にと走っている。次々と吐き出される炎で燃やし尽くされる者もいれば、走っているところへ壁が崩れてくる不運な者もいる。それでも人々は逃げるのを止めようとはしなかった。ただ本能のままに彼らは走り、逃げ惑った。逃げる事しか、頭になかったのである。それ以外はただ、恐怖だけがあった。
――逃げよう。逃げるしかない。早くこの場を去るのだ。早く! どこかへ行かなくては……!
さりとてどこへ行くというのだろうか。どこへ逃げるというのか。マイオセールの周りには広大な荒地が広がっているのだ。一番近くの村まででも、かなりの距離がある。用意もなしに町を出て行くことなど出来はしない。人々は、炎を避けてただ取り乱すばかりだった。
「昨日までとは比べ物にならないほど素晴らしき支配が待っているのだ。感謝したまえ、マイオセールの民よ! ……いや、例えあがこうとしても無駄な事。このアルヴェイスがいる限り、逆らう事など出来はしない。ルセールはもはやレノアの物なのだ。好きなだけ走り回るがいい、どうせ逃げる先などありはしないのだからな!」
レノア兵士はいつの間に背に乗ったのか、翼の付け根で地獄の光景を見下ろしていた。その高笑いが耳に入る者は一人としていなかったが、彼はしばらく勝利の歓喜に酔いしれた。それから足の下の巨体に向かって大声で呼びかける。
「アルヴェイスよ、次は王宮だ。愚かなる者どもに思い知らせてやるがいい、お前の力をな!」
その言葉に反応するように、「それ」は動きを止めた。それから鱗に覆われた体を震わせ、身をよじるようにして漆黒の翼を開いていく。すぐにそれは体の二倍ほどにまで広がった。足を曲げ、力を込めると、翼が揺らぎ始める。やがて大きく羽ばたくと同時に、風が捲き起こった。広場に散らばっていた枝や天幕などが引きずられるように舞い上がり、そのいくつかは再び地面に叩きつけられる。風とともに土埃が舞い、残された人々は思わず顔を覆った。翼が力強く上下し、風を切る音とともに巨体が宙に浮き始める。浮き上がる速さが徐々に増し、十を数える間もない内に上空に達していた。何度か旋回すると、「それ」は王宮へと向かって飛び去っていった。
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