LL index≫第五章(一気読み) (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9) (10) (11) (12) (13)
ハーディスは、徐々に輝きを失っていった。血のように赤く染まった岩肌が、不吉な予感を抱かせる。暮れ落ちる秋の夕陽は、夏のそれよりもずっと早い。風が低く、強く、唸っている。闇が刻一刻と深くなり、あれほど晴れ渡っていた空には、いつの間にか黒々とした雲が流れていた。
所々、道端に転がっている岩が、道に影を落としている。四人はごつごつとした岩山を急ぎ足で、しかし一歩一歩を確かめながら注意深く歩いていた。足元は暗く、そこら中に転がっている石にいつ躓(つまづ)くとも限らない。山道があるとはいえ、大きな石をどかして多少歩きやすくしただけのものだ。少しずつ、あたりの景色が色を失っていき、闇が山全体を浸していく。誰も口を利かなかった。足音と、荒い息遣いだけが聞こえる。
山を一日で越えるのは到底無理な事だった。ほとんどの旅人は、山頂近くにある町デュレーで一泊する。ラマカサを朝早くに出発したなら、デュレーには夕方遅く到着する。しかし四人が領事フォマーに追われ、ラマカサを出たのは今日の午後の事。ハーディスはその輝きを柔らかなものに変え、ほんの少しづつ地平線へ近づきつつあった。そして今やハーディスは山陰へと隠れつつあり、メルィーズが支配する時間が訪れようとしているのだった。
冷たい夜風を首筋に感じ、クリフはマントの襟を立てた。クレオが持つ火影(ほかげ)が赤く、小さく灯っている。クリフには、夜がどれだけ恐ろしいかよく分かっていた。闇の前に人間は屈服する。夜は自然の力が増すのだ。まして、ここは安全な町ではない。暗くなってから出歩くのは危険すぎる。それは、サナミィの森でもこの山でも同じ事だった。クリフはそれを直感的に感じていた。夜が深まる前に、一刻も早く町に辿り着きたい。その思いが列の先頭を行くクリフの足を早めた。
双子のすぐ後ろで、エイルは珍しくも口を閉ざして歩き続けていた。ただし、彼は黙っていたいと思っているわけではない。話す余裕がないのである。最早ひきずるようにしか動かせない足と、薄く開いた唇。水色の瞳を苦しげに潤ませ、エイルは息を切らして歩いていた。
一行の最後を歩くシキは、その様子を見て胸を痛めている。夜の山道は、若き少年王子にとって非常に酷だろう。細い足で懸命に歩くエイルを助けてやりたいとは思えど、馬も歩けぬようなこの道では王子を背負って歩くのも難しい。休憩させるゆとりもない。エイルの肩が苦しそうに上下しているのを見ると、シキは自分も息苦しさを感じてならなかった。
ついに、ハーディスの姿が完全に見えなくなった。シンジゴ山脈が、夜に沈む。見る間に視界が暗くなり、すうっと寒気が押し寄せる。じんわりとかいた汗が急激に冷えて、クレオの身体が震えた。明かりなど全くない山道を、四人はただひたすら先を目指して歩き続けている。彼らの他には誰もいず、何一つ、動く気配すらなかった。
いつの間にか、メルィーズが輝きを増している。今日の彼女はほぼ完全な円形を描いていた。星々で飾った夜空に君臨するメルィーズは、人々に畏敬の念を抱かせる女神であり、また同時に畏怖の対象ともなっている。その彼女をひときわ黒い雲が覆い隠した時、シキは気配を察して立ち止まった。短く、しかし強い調子で呼び止める。
「クリフ」
声の鋭さに思わず足を止めたクリフは、シキを振り返った。シキは、じっと前方を見つめている。クリフは再度振り返り、進行方向の闇に目を凝らした。
「誰かいる……」
クリフの言葉に反応したかのように、強い風が吹き渡った。再びメルィーズが姿を現す。眩(まばゆ)いまでの月光が、一人の男を照らし出した。
真朱(しんしゅ)色とでも言えばいいだろうか、深みのある赤い髪。高い身長と、それに見合うだけの強靭な体躯。柔らかという言葉にはおよそ程遠い、苦み走った顔立ち。太い眉の横には大きな切り傷が痕になっていて、あごは無精ひげで覆われている。年は三十をとうに越しているだろう。鎧すら身につけていないが、剣士として十分な貫禄と風格を備えていた。腰には五サッソほどの長さのシャムシールを帯びている。シキは、男が腕の立つ剣士だと直感して疑わなかった。
「思ったより色男だな」
低く太い声でそう言いながら、岩肌に寄りかかっていた男はゆっくりと身を起こした。左手を剣の柄にかけ、近づいてくる。シキは既に三人を後ろにかばい、慎重に身構えていた。
「ひでぇ悪人だって聞いてたが……人間見た目じゃ測れねぇとはよく言ったもんだ」
「何者だ」
「俺の名前なんざ何でもいいんだよ。あんたがシキだな?」
「何故俺の名を……」
「面倒くせぇ。いいから剣を抜けや」
男はそう言いながら、自らのシャムシールを素早く抜いた。左手首を軽く捻ると、鞘を地面に放り投げる。心当たりがなくとも、戦いは避けられないようだった。デュレーは男の立つ道の先にある。エイルたちのことを思えば逃げるわけにもいかない。シキは覚悟を決めて、腰の長剣を抜き放った。
相手の目は、ひたとシキに据えられている。クリフたちなど、全く眼中にない。それを見て取ったシキは、三人と距離を取った。彼らを巻き込む危険を避け、赤毛の男と対峙する。
メルィーズは戦いの行方が気になるのか、姿を隠すことなくあたりを照らしていた。闘技場での戦いとはまた違う雰囲気が満ちていく。ハーディスに見守られた武闘大会は明るく、地面は平らだった。だが、ここは違う。満月とはいえ夜の山道。足場も悪く、道幅も狭い。わざわざここで待ち伏せしていたのなら、相手には地の利があるのかもしれない。シキにとっては不利な状況と言わざるを得なかった。
――油断出来んな。
シキは息を殺し、体中に力を漲(みなぎ)らせて時を待った。ほんの僅かな、一瞬の隙を突かねばならない。何も言わずとも、二人の男の間には同じ空気が流れていた。言葉には出来ぬ、強いて言うなら気迫とでも言うべき、とてつもなく熱い空気が二人の身体から立ち昇っている。お互いの視線は、ぴくりとも動かない。砂利を踏んだシキの長靴(ちょうか)が、小さな音を立てた。赤毛の男が、それとほぼ同時に動く。当然のことながら、シキも素早く反応していた。常人の目では追い切れないほどの速さで、彼らは幾度も切り結んだ。湾曲した刀身のシャムシールと真っ直ぐな長剣が、かち合うたびに青白い火花を散らす。
力量は、ほぼ互角だった。しかし赤毛の男の剣は鋭く、地の利と経験を生かしている分、シキは苦戦を強いられている。幾度か剣を交えた後、二人は再び動きを止めた。緊張は解かず、絶えず間合いを計りながら息を整える。
「へぇ、若い割にゃやるじゃねぇか色男」
赤毛の男は、満足げとでも言うかのような笑みを浮かべている。シキは言葉を発する事なく、ただ視線を返した。
――ヴァシーリーほど力はないが、技量では勝るとも劣らない。剣は恐らく独学だろうが……恐ろしく強い。こんな男、城にいては見(まみ)える事もなかっただろう。これは、負けられんな。
口の端に、かすかな笑みが浮かぶ。それは、シキにとって滅多にない事だった。
自分より強い者などいくらでもいる。実際に、今まで何人もの強者と戦った経験があった。しかし自ら望んで戦ってみたいと思ったことは、そして倒したいという感情に駆られたことはまずなかったのである。シキは、ごくりと唾を飲み込んだ。不利な状況に変わりはない。しかし、どこか楽しんでいる自分がいる。シキはそんな自分に驚きはしたが、嫌悪感は抱 かなかった。
戦いは、延々と続いた。メルィーズが雲の影に隠れることもなく、いつしか一時間近くが過ぎた。二人はともに精神力を消耗し、息も荒い。これ以上は……シキがそう胸の内で呟いた時、赤毛の男が低い声で言った。
「そろそろ勝負をつけるか」
それを合図にしたかのように、二人は動いた。弾かれたような素早さで位置を変える。メルィーズの月光が、二振りの剣の刃を白く閃(ひらめ)かせた。剣戟(けんげき)が、岩山に響く。シャムシールの刃を跳ね返そうとした刹那、シキの膝が疼(うず)いた。踏ん張ったはずの膝から一瞬力が抜け、足が岩の上をすっと滑る。
「くっ!」
見守っていた三人が息を飲む。ごく僅かの隙は、相手には十分だっただろう。しかし、赤毛の男は剣を振り下ろさなかった。踏み込もうとした足を引き、シキが体勢を整えるのを待つ。すぐに持ち直したシキは、再び剣を構えた。二人はお互いの力量と、正しい戦いのやり方に満足しているようだった。
その時。今までずっと天空に輝いていたメルィーズが、突然雲に覆い隠された。その場の誰もが動きを止めた。人工的な光など何一つ見えない山中である。真の闇が全てを飲み込み、何もかもが影の中に消えた。
暗闇に残されたのは、ほんの小さな灯りだった。宿屋のおばあさんが持たせてくれた火種である。クレオが持っていたそれだけが、闇に赤く、ほのかに浮かび上がっていた。
「あっ!」
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